海 の 底 の 男 の 






 男は伯爵であった。
 広い館に住み、多くの使用人を従え、贅沢三昧の暮らしを送っていた。
 望む物は何でも手に入った。彼に逆らうものなど居なかった。
 伯爵に家族は無い。しかし彼は孤独を感じたことなど一度も無かった。むしろ彼の財産を狙う、妻や子が居ないことに感謝した。


 ところが、その伯爵にも手に入らない物ができた。海の底に位置する社に奉ってあるという、巨大な薄桃色の光を放つ真珠であった。伯爵は多くの使いを向かわせたが、一人として目的を果たせた者は無かった。神の領域を侵してはならなかった。
 伯爵は自分の思い通りにならないのに歯がみした。神に臆したものは皆、腑抜けだと思った。
 伯爵は何十人もの人を従えて船を出し、自らその場へ赴いた。
 海底へ潜ると、社のことなど目に入らないかのように、真珠へ向かって手を伸ばした。真珠は堅く分厚い岩の隙間に挟まっており、随分と奥のほうに隠れていた。 伯爵は腕を肩まで隙間へ入れたが、岩壁が邪魔をして届きそうに無い。
 癇癪を起こした伯爵は、足で岩を蹴り崩そうとした。
 その途端、伯爵の右足は膝まですっぽりと岩の隙間に挟まり、前にも後ろにも抜けなくなってしまった。
 伯爵は驚き慌て、足を抜こうとしたがびくともしない。周りについて潜っていた使用人たちも皆で伯爵の足を掴み、力をあわせて引っ張ったが動かない。 少し動いたと思った瞬間、伯爵の足に激痛が走った。彼はひどく憤り、使用人たちをもう一方の足で蹴り飛ばした。使用人たちはしばらく、なんとか足を抜こうと努力をしていたが、息が続かなくなったのか一人去り、二人去り、ついに伯爵の周りには誰も居なくなった。
 そして誰一人戻ってこなかった。
「どうしたのだ、お前たち、何をしている、早く戻ってこないか」
 かんかんに怒った伯爵は、ここが水中であることも忘れて叫んだが、不思議と息が苦しくなることは無かった。
 ついには船も去り、暗い海の底で一人きりになった伯爵は、ただ腹を立てていた。
 夜になり、次の朝を迎え、長い時間が経ったが、伯爵の息が苦しくなることは無かった。腹が空くことも、眠気を覚えることも無かった。
 それから何百年もの時が流れた。
 岩に足を挟まれた伯爵は、それでもただずっと海の底で腹を立てていた。


 そんなある日、海の社では何百年かぶりに変化が訪れた。この目立たない社に、供物を捧げに来る者があったのだ。
 それに伯爵が気づかないはずが無かった。捧げ者を持ってきたのは、みすぼらしいなりをした、痩せた人魚の娘であった。伯爵は彼女の姿形から、身分の低い娘であろうと判断した。
「召使いの娘よ、」
 伯爵が迷わず呼びかけると、帰ろうとしていた娘は驚いたようにこちらを振り向いた。
「私は外の世界からやって来た人間だ。わけあってここから動くことができない。私は伯爵だ。大きな館で、たくさんの使用人を抱えている。私が一言命令さえすれば、何百人もの者が お前の身体をずたずたにすることもできるのだ。そうなりたくなかったら、私の言うことを聞け」
 何百人もの使用人が全て、もうこの世には居ないことなど知らず、伯爵は娘に言った。娘はそれを聞いて震え上がり、慌てて伯爵の側にひざまずいた。
「おそれ多い伯爵様。おっしゃるとおりに致しますので、どうか命だけはお助けください」
「召使の娘よ、私は岩に足を挟まれ、外の世界へ帰ることができない。長い年月の間、着ている物もぼろぼろになってしまった。まずは新しい上着を持って来い」
 伯爵が早速用を申し付けると、娘は細い身を躍らせて泳ぎ帰って行った。


 次の日、娘は新しい仕立ての立派な上着と、幾ばくかの食物を携えて現れた。
「食べる物はいらない。腹は空かないのだ。この立派な上着はどうした。盗んできたものか」
「とんでもございません。わたくしの仕えている方は、この辺りの海を治めている領主様です。領主様に、伯爵様のことをお伝えしたところ、新しい服と食べ物を下さったのです」
 伯爵は自由な両腕を使って着替えながら、変わった主人も居るものだと思った。自分なら、召使いに新しい服を与えるなど考えられないことだった。
 着替え終わった伯爵の側に娘はおそるおそる近寄り、足が挟まっている岩の隙間を覗くと、片手に握っていた小さな光るものをいくつか投げ入れた。
「召使いの娘よ、今、手に持っていた物は何だ」
「これはこの界隈でだけ見つかる珍しい薄桃色の真珠です、伯爵様。この隙間がふさがるほどに真珠を集めて捧げることができれば、きっと神様もお許しくださいます」
 娘はそう言って、伯爵の足元にしゃがみこみ、暗いごつごつとした岩肌を手で探り始めた。娘は長い間、懸命に探していたが、その日見つかった真珠はたった二つだけだった。
「わたくしが仕えているのは領主様です。わたくしは自分の仕事が終わった後にしかここへは参れません」
 娘はそう告げて、海の奥へ戻って行った。
 娘は毎日やってきて、彼の側で真珠を探した。真珠は幾つか見つかる日もあれば、一つも見つからないこともあった。
 動けない伯爵はただそれを見ているだけであった。彼が娘に話しかける日も、また一言も言葉を交わさないこともあった。
「召使いの娘よ、お前はなぜ今の主人に仕えているのだ」
「わたくしの母が領主様に仕えていたからです。母の母も領主様に仕えておりました。その前の母も、その前の母もです。ずっとそうしてきたのです、伯爵様」
「召使いの娘よ、お前は人に仕えて楽しいのか」
「楽しいことばかりではございません。朝が辛いこともございますし、夜半に疲れて動けないこともございます。けれども、それと同じくらい楽しいことがたくさんあるのです。領主様はとても良い方です、伯爵様」
 娘が集め続けた小さな真珠は、岩の裂け目を半分埋めるまでになった。
「召使いの娘よ、お前は外の世界へ出たことはあるのか。地上は美しいぞ。天気の良い日には、気持ちの良い風が吹いて、鳥がさえずっている。 お前は鳥の声を聴いたことはあるのか。私の館では、遠い国の美しい鳥をたくさん集めて、庭に放していた。朝はそれらがいっせいに美しい声でさえずるのだ。 それはそれは良い声であった」
「鳥でございますか、伯爵様。わたくしは海面で、カモメの鳴く声を耳にしたことがございますが」
「愚かな娘よ、カモメやウミネコのしゃがれた声など比べものにならぬ」
 娘が集め続けた薄桃色の真珠は、岩の裂け目を八分目まで埋めるようになった。
「召使いの娘よ、海底は実に暗く陰気なところだな。音の無い、つまらない死んだ世界だ。私は鳥の鳴き声が恋しい」
「伯爵様、もうしばらくです。もうしばらくすればこの裂け目は真珠でいっぱいになるでしょう。そうすればきっと外の世界へ戻れます。 それに伯爵様、海の中は決して音のない世界ではございません。耳を澄ませてごらんなさい。きっと海獣たちの唄が聴こえるでしょう。イルカの交わす言葉です。 仲間を慕い、親や子を呼ぶクジラの唄です」
「おかしな娘よ、私には何も聴こえてきはしない」
「それは伯爵様が聴こうとされないだけなのですわ」
 伯爵は娘が帰った後、久しぶりに海面を見上げてみた。暗い海面には、溶けた月がゆらゆらとたゆたって浮かんでいた。
 伯爵は独りきりで両目を閉じ、耳を澄ましてみた。

  キュイリリリリリリリリリリリ………
  クオーン   クォーン

 遥か遠くの海のほうから、不思議な声が聴こえた気がした。
 これが海獣の唄なのか―――
 仲間を慕い、親や子を呼ぶ唄なのか。

 伯爵はその夜、何百年ぶりに穏やかな眠りについた。

「召使いの娘よ、私は昨晩クジラの唄を聴いたぞ」
「そうでございましょう、伯爵様」
 娘はそう言って白く細い手で、伯爵の足元へ、鈍く光る真珠の粒を注いだ。
 もう少し。
 あと少しだった。

「召使いの娘よ、お前は唄を知らないのか。何でも良いから唄ってみよ」
「唄、でございますか」
 伯爵の問いかけに、娘はためらいながら薄い唇を開いた。
 娘の口から驚くほど美しい旋律が流れ出した。静かな声であったが、その唄は伯爵にはっきりと届いた。 忘れていたものを全て思い出すような、心に染み入るように美しい唄であった。
 伯爵は静かに涙を零した。
 しかし涙は海水に紛れ、伯爵自身もそれに気づくことはなかった。
「母から伝えられた人魚の唄です、伯爵様」
「人魚の娘よ、美しい声を持つ娘よ、私はお前の唄が気に入った。私のために唄っておくれ」
 娘はその日から真珠を探す間中、休まず唄い続けた。
 しかし、それも長くは続かなかった。
 娘が最後に捧げた四つの真珠で、岩の隙間はぴったりと埋め尽くされた。
 その瞬間、伯爵の足は、まるで最初から何もなかったかのようにあっさりと岩から抜け落ちた。
「見ろ、娘よ。私の足だ。私は自由だ。娘よ、お前は本当によくしてくれた。何でも好きな物をとらせよう。 望む物を与えよう、」
「本当にようございました、伯爵様」
 叫ぶように言った伯爵に、娘はただ微笑んで、何も言わず彼の手をとった。
 伯爵は娘に手を引かれ、しびれた片足を少しずつ動かしながら、海岸へ向かって泳いだ。
 裸足の裏に砂が触れた途端、伯爵は喜びのあまり、娘の手を振り払って水面から顔を出し、砂浜へと駆け上がった。 本当に長い間踏むことのなかった地上の感触は、まだ浮いているかのように不安定であった。
 伯爵は肺いっぱいに新鮮な空気を吸い込んだ。途端に身体が今まで感じなかった空腹を訴えた。
「召使いの娘よ、さあ、行こう。私の生まれた館を見せよう。庭中に放たれた美しい鳥たちを見せよう。 お前は人魚の唄を聴かせてくれた。今度は私が鳥たちの唄声を聴かせてやろう、」
 伯爵が振り返ると、そこには水面に首だけを浮かべた娘が居た。
 娘は不思議な笑みを浮かべていた。
「わたくしは参れません、伯爵様。わたくしは海の生きものです。外へ出たら死んでしまうのです」
 伯爵はぽかんと口を開けた。
 伯爵はそこで初めて、娘が当然のように外の世界では暮らせないことに気づいた。
「伯爵様……。わたくしは――たった今、欲しいものができました。わたくしは足が欲しゅうございます。 今、ここで、伯爵様について行ける足が欲しゅうございますわ」
 伯爵は何も言えなかった。
 何でも欲しい物を手に入れ、望んだ物は国中から集められた伯爵にも、与えられないものがあった。
 娘は最初から何もかも知っていたように微笑んだ。
「伯爵様……、どうぞ御無事で、」
 娘は名残惜しげにそう言うと、ちゃぷんと音を立てて海面の下へと消えた。
 後にはただ静かに凪いだ海が広がっているばかりだった。
 
 砂浜には、伯爵ただ独りが残された。
 辺りは海の底に居た時よりずっと静かで、


 伯爵は、―――初めて孤独というものを感じた。


 私はもう何もいらない。
 あの娘が居たから、海の声が聴こえた。
 唄が聴こえた。
 私は陸に生きるものなのに、海の中で生き続けた。もう私は陸の生きものではないのかもしれない。
 鳥の唄がもう二度と聴けなくても寂しいことはない。
 代わりに唄ってくれるだろう。クジラが、海獣が、あの人魚の娘が―――
 海へ帰ろう。あの娘の元へ戻ろう。
 そしてその時こそ、あの娘の名を尋ねよう。
 時間は動きだした。
 私はこれから確実に歳を重ねていくだろう。彼はそう確信していた。






02,8,9〜




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