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中央棟
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昔からエレベーターが嫌いだ。
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体質的に合わないのだ。
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狭くて窮屈なところもさる事ながら、あの浮き沈みする無重力感が何ともいえない。酔いそうになる。地震とかで止まると怖いしさ。逃げられないじゃないか。あの高さでロープが切れたら、と思うと余計に。
落ちたら確実に死ぬだろ。
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だから、とどのつまり、臆病なのだ。
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そんな理由で、急いでる時と人数の多い時以外、エレベーターはなるべく使わないようにしている。
会社が終わって、オフィスに書類を忘れたと気づいた時もそうだった。同僚らを先に帰して戻ったはいいが、一人であの密閉された箱に入る気はしない。
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デスクは7Fだったが、たまには階段も良いかと思った。運動不足だし。まだ足腰も若い気でいるし。
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うちの会社の設計は、明るい空間を念頭に、コンクリートで磨き上げた床にガラス張りの仕切り、不思議な所に設置されたライトがあったりして、近未来的なデザインを目指したなんて銘打ってある。しかしこの階段の足元にあるライト。
小さすぎるか光量が足りないかして、本来の役割を果たしていない。
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普段怠惰な会社員たちがあまり使う事のない、細い階段。1階半おきにあるガラス窓から差し込む西日が、紅から薄墨に変化しようとしている。床石も高質観を狙って黒ずんだのをチョイスしているせいで、薄暗いばかりだ。
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清掃の人も、もう帰る時刻だろうか。覗く階ごとに人影はない。一歩踏みおろすごとにカツンと鳴る靴音が、一度反響して、また耳まで戻ってくる。まだ居るぞ、ということを誇示するためにわざと音を立てて歩いた。
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前から人が降りてくる。
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「あ、どうも」
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すれ違いざま、軽く頭を下げた。向こうも軽く笑って、会釈を返す。若々しい色のスーツに、クリアファイルを小脇に抱えていた。この装いは、新人かな。
雑用か何か押し付けられでもしたのだろう。カツカツと小気味良い音を立てて、降りて行った。
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こちらも早く出よう。足を速めて、自分のオフィスに入った。7Fの上り下りはさすがに骨が折れる。会社を出た頃には、情けない事に息が上がっていた。
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「あ、先輩、遅いですよぉ」
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行きつけの店に着くと、先に帰した後輩がビール一杯ですでに出来上がっていた。
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「おれ、先輩が来るまで飲まないようにしようと思ってぇ」
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「嘘つけ、お前。ばんばん飲んでたじゃないか」
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「あぁ、言うなよぉ」
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隣の同僚に言われて、つかみかかる。大きな子供の酔っ払いは質が悪い。
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「帰れなくなる前にやめとけよ」
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一応忠告しておいて、上着を脱ぎながら腰を下ろす。
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「まだいけますよぉ。そういえば、先輩はファイルあったんですか、」
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「あったよ。幸い、まだ開いてた」
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「開いてましたか? おっかしいなぁ、さっき思い出したんですよ。おれ何かカギ閉めるとこ見たような気がするんですけど」
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「酔っぱらいの言う事は信用できないな」
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「あぁ、ひどいです。オフィスを出た後に見たんですよぉ」
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「まだ残ってる人が居たんだよ」
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「まだ残ってる人ぉ? 今日は残業無い日じゃなかったんですか?」
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「無くても残る人も居るだろ」
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「えぇ、おれは帰れるんなら残りたくないですけどねぇ」
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そこで後輩は席を立って、奥の方へ食べ物の追加注文に行ってしまった。
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戻ってきたと思ったら、急に神妙な顔になる。
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「先輩、さっきの話なんですけど、おれ考えたんです。それって……、今噂のアレじゃないですか。こぉんな話知ってます? 日の暮れる少し前、
まだ明るいくらいに、だぁれもいない中央棟を徘徊する若い男の幽霊が出るんだそうですよ。カギはその幽霊が開けてくれたのかもしれませんねぇ」
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「何言ってるんだ」
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注文して持って来てもらったビールをコップに注いだ。ショワショワと小さな泡がはじける。
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……その噂なら、入社当時からある。
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歓迎会で一度聞いて、飲み会で聞いて、先輩から聞いて……。
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こうして語り継がれるんだろう。
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「幽霊が開けてくれたんですよぉ。親切な幽霊さんだぁ」
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「帰るのが遅れた人だろう」
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「ええぇ、じゃあどこの部の人だったんですかぁ」
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「社内の人を全員、知ってる訳ないだろうが」
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「そりゃあそうですよねぇ。こりゃあおかしいやぁ」
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後輩は何がおかしいのか、けらけら笑いながら他の同僚にビールをつぎに行ってしまった。
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冗談じゃない。
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今の現代社会、幽霊がそう居てたまるか。
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しかし、よくよく考えてみれば、正面で視線を合わせたあの社員の顔が、どうしても思い出せない。逆光でもなく、ちゃんと見たはずだが。
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待てよ。足音がしてたじゃないか。足はあるぞ。
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いや、でも上から降りてきた時、足音はしていただろうか。急に現れたような気も……。
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あの噂。男はどういう謂れで出るんだったか。
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すれ違った社員は、口許で笑っていた。あの分なら、心残りもないんじゃないか。
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それにしても、徘徊するのは構わないが、あの高くて広い中央棟で、なんて確率で鉢合わせするんだ。もっと目立たないところをひっそり歩いてくれ。
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少し温くなったコップのビールをぐっと飲んだ。
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でも……、エレベーターで二人っきりにならなくて、良かったな。
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