屈 折 角 イチほど人の気持ちがわからない人はいない。 目の前で口を開けて顔の右半分をひきつらせ、目薬を入れようと奮闘しているイチを見ながら、ハナは今まで何度となく考えてきたことを思う。 「何」 あまりに長くじっと見つめていたものだから逆に向こうから尋ねられた。 「人体の不思議について考えてたの」 「奇遇だな。それさっきオレも考えてたんだ」 彼は安売りでもするようにぽんと手を打った。 「人間ってなんで目薬さす時、口が開くんだろうな」 そう言ってまた目薬を手にして今度は顔の左半分をひきつらせながら口を開けている。目薬は細められた眼よりもよっぽどその大きな口の方に入りそうだ。 ハナの見ている前で目薬は全く眼に入らなかった。この男は単純に目薬を入れるのが怖いのだ。無意識に気持ちが怖がって眼をつぶるから入らない。 収縮と緩和の混在した、いかにも変な顔だった。 たぶんこの男は、自分の前で恰好をつけようなどという発想がスプーンの先ほどもないのだろうと考えてハナはがっくりくる。友達以下でも決してそれ以上でもないんだろう。 最近突然眼鏡からコンタクトレンズにかえたイチは頻繁に目薬をさすようになった。何の心境の変化があったのか、いつも側にいる訳ではないハナにわかるはずもない。 目薬を入れるのも怖い人が、コンタクトを入れるなんてもっと怖いだろうに。 「入らねぇ、やめた」 目薬のケースを机の上に放り投げて、短気なイチは立ち上がる。 「ビデオでも見る?」 最近良いのが入ったんだ、とビデオ屋の怪しげな店員のような口調で笑ったイチは、狭い棚の間から取り出したカセットをデッキに入れる。先程目薬をさしていた(結局入らなかったのだが)のはビデオを見るためだったらしい。 「何のビデオ?」 「『昆虫の一生』」 「・・・・・・これほど興味ないものも無いっていうくらい興味ない・・・・・・」 「ま、いいから見てろって。なんか飲み物持ってくる」 四畳半の部屋続きの台所へ行ってしまったイチを恨めしげに横目で見ながら、ハナは仕方なく画面に顔を向けた。 「しまった、先週で茶っ葉がきれたんだ。水道水でいい?」 向こうからそんな声が聞こえてくる。 友達以前に客とも思われていない気がして、ハナは答える気力もなくなりそうになった。一人暮らしを始めたばかりのイチに対して贅沢を望む気なんてない、けど。 「せめて白湯にしてよ!」 「・・・仕方ねぇなー。とっといたこれを出してやるか」 硝子戸の陰から突き出た腕の先にはジンジャーエールの瓶が一本握られていた。 「炭酸抜けっから一気に飲む時までとっとこうと思ってたのに」 ぶつぶつと恩着せがましそうに言いながらハナの隣りに座って空のコップを二つ置く。 「どうしたの、それ」 「うん、友達がくれた。イチくんはいっつも水ばっかり飲んでるでしょーって」 イチは妙な口真似をしながら、こちらを見ることなく栓抜きを探している。 「友達って同じ学部の子?」 「うん、そう」 「その友達って女の子?」 「・・・・・・んーー、まぁね」 開けたジンジャーエールをそそいでいるせいか言葉がとぎれる。 ハナはイチの大学での生活を何も知らない。子供の頃からの昆虫好きが昂じて大学までその方面に進んだイチ。彼はそこでハナの知らない時間をたくさん過ごしている。そこにはハナと違って昆虫の好きな気の合う友達がたくさんいるんだろう。 訊きたいことはたくさんあっても、それ以上何をどう訊いていいのかわからない。 机の上に倒れたままの目薬とコンタクトのケースが何故だかやたらと目についた。 「やっぱいい」 「へ?」 「それいらないや。白湯でいい」 「なんだよ人がせっかく入れてやったのに。しょうが嫌いだったら最初から言えよなー」 イチはなんだよとくり返しながら自分のコップにだけジンジャーエールをついで一息に飲んだ。 きっとこの、人の気持ちなど1ミリもわからない昆虫好きの男には人間らしい感情を持つだけ無駄なんだと思う。ハナは延々と流れている虫のビデオをとめてやりたくなった。 「あ、見てみろよ。アゲハの幼生だぞ。こいつらうまそうに葉っぱ喰うよなぁ。ほら口んとこが」 「詳しく聞きたくないわよ」 「そうそう知ってた? 青虫ってムラサキキャベツ食べると紫色に・・・」 「聞きたくないったら!」 イチはハナを怒らせておいて少し笑った。小学生の頃からそうだった。イチはハナの嫌いな虫を外で捕まえてきては、見たくもないのに見せてくれる。そのおかげかどうかは知らないが、ハナはだいぶ虫に対して免疫がついてしまった。 少なくとも見ただけで悲鳴をあげることなどないように。 「ハナ」 ビデオの前にいながらそっぽを向いてすねているハナにイチは背後から呼びかけた。 「今度バイト代入ったら植物園にでも行く?」 「ほんと!?」 「珍しい蝶を見せてくれるらしいんだ。ハナも見たいだろ?」 また虫か・・・・・・と肩を落としつつも、ハナは虫を夢中で追いかけるイチの姿がそう嫌いでもない自分を知っていた。 ハナを送り出した部屋でイチは一人、さっきあきらめた目薬入れにもう一度挑戦することにした。慣れないコンタクトをつけた目が乾いて仕方ない。 コンタクトを入れるのに毎回大変な時間を要するし、ずれると涙が出るほど痛いし、高額な買い物のおかげで生活は圧迫されるし、良いことがない。それでも目薬を入れるためにイチは顔を天井に向けた。 ―― 眼鏡ないほうがイチは似合ってるね。 先月ある拍子に眼鏡を外したイチにハナが何の気なしに言った台詞。本人は自分が言ったことさえ忘れているようだ。こんなに苦労したのに期待して会ってみれば何の反応もない。 目薬がやっと一滴入った瞳を何度も瞬かせながらイチは思った。 ハナほど人の気持ちがわからない奴はいない。
ムラサキキャベツ云々は教育テレビで見たんです。
ほんとになるんですよ!(聞きたくない?) (03,11,7) |