ある夏の日のこと  




 
 祖父の家は深い山に囲まれた盆地にあった。
 小学校何年だかの夏、そこで一週間の時を過ごした。


 都会で育った子供には、がっしりとした日本家屋と広がる田園風景は珍しく、遊ぶものに事欠かなかった。両親と離れる心細さよりも、秘密めいた階段のその先や、夜に聞こえてくる無気味な鳴き声の主への好奇心のほうが強かった。
 祖父は岩のように無口な人で、庭でよく微動だにせず並べた盆栽を観賞していた。祖母は、僕のために浴衣を縫ってくれた。祖母が夜寝る前に話してくれる、この地に伝わる古い話を聞くのが好きだった。
 科学者で、一切そのたぐいの話をとりあわない父が、幼い頃を過ごした家だとは到底思えなかった。
 祖父は近寄りがたい雰囲気で、笑いかけてくれることもなく、きっと僕みたいな子供が嫌いなのだろうと思っていた。
「おじいちゃんは若い頃苦労したのよ」
 祖父を苦手に思う僕に、母はそういってきかせたが、よくわからなかった。


 山の彼方まで見えるようによく晴れた日には、祖母が山へ散策に一緒に連れて行ってくれることがあった。降り注ぐような蝉時雨や、朽ちた木の障害物など、興味をひくようなものばかりだった。けれど祖母からは、大人が誰もいない時、田圃を越えて一人で山へ入ってはいけないと幾度となく言われた。
 タチアオイの並ぶ小道を通り過ぎて、見えてくる山の入り口は、ひそやかに魅力的に僕を呼ぶのだった。
 蒸し暑い夏の午後も、縁側の木陰には涼しい風が通り抜けており、そこで一時間宿題をすることが日課だった。軒先につるした江戸風鈴が、からりこん、とグラスの中で氷がぶつかるような音をたてた。算数のドリルはすぐに終わったけれど、苦手な作文だけはいつまでたってもとりかかれなかった。作文の題材は、―― ぼくの、わたしの、宝物。
 縁側で煮詰まっているとそこから、庭の池のほとりで腕組みをしてじっと水面を見下ろす祖父の立ち姿が見えた。
 何を見ているのか気になって、祖父の隣りへいった。
 庭に広がる浅い池には、数匹の錦鯉が放されていた。暗めの水の中で、錦鯉が身を翻すたびに白いうろこがきらりと光った。
 祖父は僕に気づいても無言であった。僕はしゃがんで同じように鯉を見てみた。赤と白、それに黒が混じったもの、鈍い金色、模様はさまざまだったが、どれもゆったりとして大きく、見事な鯉だった。
 祖父は組んでいた腕をほどくと、そのまま開いて二度、三度手をうった。
 すると、今まで遠くのほうを泳いでいた鯉が祖父の元へと集まり始めた。ポシャと水面から額を出して、丸い口をコポコポと開ける。
「すごい」
 僕が思わず声をあげると、祖父は満足気な顔をした。
 懐から取り出した紙のつつみから丸い ふ を投げる。鯉は我先と争って ふ を食べ始めた。先ほどまで静かだった池が一気ににぎやかになった。
「やってみるか」
 目の前に紙のつつみを差し出されて、僕は喜んで手を入れた。ふ を投げると、鯉は面白いようにバシャバシャと騒いだ。
 一匹の鯉がぴしゃりと跳ねた。額の上だけ丸く赤色がついた白い鯉だった。
「あれはなんていうの?」
 僕が指をさして尋ねると、しばらくして「丹頂」と祖父は言った。
「あれは?」
 今度は近くにいた赤と白のまだらの鯉を指さす。「紅白」と祖父は言った。
「あれは?」
 普段無口な祖父が答えてくれるのが嬉しくて、僕は次々と聞いていった。
 色鮮やかな鯉たちに混じって、ふと、一匹だけくすんだ青灰色の鯉がいることに僕は気づいた。とても大きくて動きも鈍い。左目の上に古そうな傷跡があった。
「これは?」
 華やかできらきらとした鯉たちの中にいるのがおかしな気がして僕は聞いた。
「これは…………、ただの鯉だ」
「なぁんだ、つまんないの」
 僕がつぶやくと、祖父は黙り込んだ。
「でもこの鯉、ここからずっと動かないんだよ。おじいちゃんのことが好きなのかな?」
「年老いておるだけだ。それに、魚に感情などありゃあせん」
 祖父はかたい口調でいうと、屋内のほうへ立ち去った。
 僕は祖父の機嫌をそこねてしまったことにがっかりして、縁側の冷たい板の上でごろごろとした。白や赤や金の鯉ばかりを集めたほうが綺麗だと思っただけなのに。祖父と話したかっただけなのに。
 また作文用紙に向かったけれど、ちっともはかどらなかった。祖父には「宝物」などあるのだろうか、そんなことを思った。


 次の日は朝から細かい霧のような雨が降っていた。祖父母はそろって村の寄り合いに出かけており、僕は一人で留守番だった。作文は進まない。
 どこかへ連れて行ってくれる祖母はいないし、家の中はすべて探検し終わっていた。
 僕は、黄色い長靴と雨合羽を着て、外へ出た。
 いつもは誰かとすれ違う道も、皆 寄り合いに出ているのか人っ子一人見あたらない。僕は畦道にしゃがんで田圃の中に泳いでいる黒い小さなオタマジャクシを見ていた。群れているあたりに指を差し入れると、さっと円を描いて離れるのが面白くて遊んでいたけれど、しばらくしてまた歩き出した。
 田圃を越えて、タチアオイの並ぶ小道を通り過ぎて、雨にけぶる山の入り口にたどり着いた。雨のせいで境界があいまいになる。僕は呼ばれるようにして山へと足を踏み入れていた。
 白いもやのようなものがかかった木々の立ち並ぶ空間は、ひんやりとした空気が漂っていた。前に祖母と一緒に通った見覚えのある路もその内とぎれ、いつしか僕は迷っていた。どこからか聞こえてくる水の音を頼りに、足を進めると、そこには大きな池があった。
 池の周囲にはよりいっそう深い霧がたち込めており、よく見通しがきかない。細かな雨は水面にたどり着く前に、霧となって消えていくようだった。少し離れたところにある小柄な岩を目指そうとして。近づくにつれ、それが岩ではなく人であることに気づいてぎょっとした。
 小柄な岩に見えたのは、僕と同じくらいの背丈の子供だったのだ。
 短い髪の毛の、切れ長の目をした男の子だった。
 木の手桶を抱えて、じっと水面を見つめている。
「だれ?」
 僕が声をあげると、その子は僕の姿にとても驚いて木桶を落としそうになった。その拍子に桶の中から、 一匹の小さな魚が跳ねて池へと落ちた。
「あ………」
「ごめんっ」
 僕は慌てて、水面へ手を伸ばそうとしたけれど、細い魚の後ろ姿はたちまち深いところへ逃げて見えなくなってしまった。
「本当にごめん」
 とり返しのつかないことをしてしまったと思った。
「……いいんだ。どうせ逃がすつもりだったから」
 男の子は静かな声でそういった。あきらめたような横顔だった。
「だって、」
「見てて」
 男の子は手を開くと、二三度うち鳴らした。乾いた音が静かな水面に響き渡る。すると、近くの水面にポシャと一匹の青黒い頭の魚が顔を出した。丸い口を開けて、細い体を揺らす。
「すごい。さっきの魚なの?」
「えさをやる時にいつもそうしてたから。覚えてるんだ」
 男の子は少しだけ得意そうに言った。
「でも、放す」
「どうして?」
「もう何もやれないんだ。明日からこの村を出るから」
「どこに行くの?」
 男の子は悲しそうな顔になった。
「うち、もう金がないんだ。だからお前もどっかのお屋敷にあがって働くんだ、って。こいつも食用に売れば少しでも金になるって言われたけど、絶対に嫌だった。何を持ってかれてもいいから、それだけは嫌だった。
 こいつアオっていうんだ。
 カラスにやられて弱ってるのを見つけたんだ。それからずっと面倒みてたんだよ。僕の魚なんだ」
 僕はよくわからなかったけれど、その子がこの魚と離れたくないのに離れなければならないことが悲しくて、でもどうしてあげればいいのかわからなくて、黙っていた。
「いつか金をためて自由になったら、ここに戻って、きっと迎えにくるんだ」
 僕は隣りでうなずいた。
 細い魚は水面でゆらゆらとしていたけれど、えさをもらえないことがわかったのか、やがて、ゆっくりと深いところへ泳いで見えなくなった。身を翻す際に、左目の上に傷があるのが見えた。
「ちゃんと生きていけるかな。これから、覚えていられるかな」
 男の子は、歯を食いしばっていた。切れ長の目から一筋涙がこぼれた。
 魚だけではなく、自分のことも言っているように思えた。
「大丈夫だよ」
 僕はそう言った。そう言わないといけない気がした。
 村へ戻るというその子に、ついていくことにした。池からはわずかな水流がつながっていて、それをたどって行けば村へ出れるのだと彼は言った。
 山を歩く途中で、名前を尋ねられた。
「僕は葵」
 僕は正直それまで、女の子と間違えられたりするこの名前がそんなに好きではなかった。 けど、その子は「良い名だね」と言った。
「そうかな、」
「ここに生えてる葉と同じ名前。青々としてまっすぐ天に伸びてる、良い名前だよ」
 そう言ってもらえて、僕は僕の名前がとても良い名前なんじゃないかと思えてきた。ちらほらと生える立ち葵が、山からの出口が近いことを教えていた。
 背の高い立ち葵の合間でお互いが見え隠れする。
「君はなんて名……」
 僕は言いかけて、口をつぐんだ。周りには誰もいなかった。立ち葵がざわざわと揺れる。霧がたち込めていた山はいつしか晴れ渡っていた。


 見覚えのある村の辻まで出たころにはもう昼をまわっていた。家に帰ると、祖母が心配して待っていた。ふだんは穏やかな祖母にこっぴどく叱られた。
 それから、雨でぬれた頭をタオルで拭いてもらいながら山での話をした。
「あすこの山に池なんかありませんよ。昔はあったかもしれませんけどね、もう埋まってしまいましたよ」
「でも僕見たんだよ」
「葵が見たというのなら、見たんでしょう。霧の出る山は、異界とつながってるなんていいますよ。 見えないものが見えることもあるでしょう。
 もう一人で山へ入ってはいけませんよ。約束してちょうだい」
「うん」
 僕は祖母と約束した。


 涼しい風の通る縁側で、僕は作文に向かっていた。江戸風鈴が、からりこんと鳴った。
 雨あがりの庭で、祖父が腕組みをして池を見下ろしていた。
 僕はその隣りへ行く。
 祖父の見つめる先には、左目の上に傷跡のあるくすんだ青灰色の大きな鯉がじっとしていた。
 祖父が手をたたくと、白や赤や金色の鯉たちが集まってくる。
「あれはなんていうの?」
「大正三色」
 白と赤と黒が混じった鯉を僕が指さすと、祖父は答えた。
「あれは?」
「秋翠」
「これは、」
 僕は、下のほうでじっとしている青灰色のただの鯉をさした。
 年老いた鯉は、祖父のたたいた手の音に応えるようにゆらゆらとひれを動かしていた。
「…………」
「これはアオでしょ。僕とおなじ名前だね」
 そう言ったら、祖父は驚いたように僕を見た。
「おじいちゃんの、宝物、だったんだね」
「………………宝物なら、たくさんある」
 祖父はそれだけ言うと、僕の肩にごつごつとした手をおいたのを覚えている。


 僕は、「宝物」の作文の一行目に“名前”と書いた。
 僕の名は祖父につけてもらったのだと、後に母から聞いた。 小学校何年だかの一週間を過ごした、ある夏の話である。






だーんだん鯉が気に入ってきてしまったので鯉の話を。
涼しい感じを目指した。目指しただけ。
鯉は長寿な魚類で、50年以上生きるものもいるそうな。
(08,7,13)



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