金魚
「すいません、道に迷ってしまって・・・」 苦しそうに言うと、彼は明らかに走ってきたとわかる足の膝に手を置いて、肩で息をついた。 おそらく綺麗に撫でつけられていただろう髪はわずかに型を崩し、ほっそりとした顔には、まるで彼のためにあつらえたようなひょろりとした眼鏡がのっかっている。 彼の名前は橋本秀一、長男。印刷関係の仕事をしていて、年令は三十・・・いくつだか、聞いたのに忘れてしまった。意味の無いデータばかりがいくつもある。 先週会ったばかりの見合い相手。三十を過ぎてひとりでいると、いろいろな方面からこの手の話が舞い込んでくるものだ。本人の望むと望まざるに関わらず。 「えっと・・・、何分くらい遅れました、でしょうか」 いまだに息が整えられていない橋本さんに対し、私は左腕をあげて近くの電球にかざし、銀の鎖のついた腕時計の文字盤を見た。 「四十分です」 「す、すいません。僕から誘ったものを」 予想外の数字だったのか、橋本さんはますます身を縮めて、かわいそうなくらい小さくなった。 「かまいません。時間が勿体ないですから、もう行きませんか」 「そ、そうですね。本当にすいませんでした」 私が自分の尖った靴の角度を変えると、橋本さんは消え入りそうな声で応えた。私の話し声が他の人には冷たく聞こえてしまうことは知っていたが、あえて訂正しようとは思わなかった。 今回の話は初めから断るつもりでいた。 他人と同じ物を食べ、同じ空間で顔をつき合わせて暮らすなどということが、私にはどうしても想像できない。 見合いも義父の顔をたてるためだ。「実の好きなように決めてくれていいんだよ。先方にもそう言ってあるからね」義父はそう言って申し訳なさそうにしていた。 決めていたこととはいえ、本人を前に断る時のことを考えると気が重く、とても楽しめる気分にはなれなかった。 歩くにしたがって、生暖かい夏の夜風に、人々の喧騒、子供の甲高い声、露天売りの決まり文句などが一気にごちゃごちゃと混ざって近づいてくる。 少し強めの風が吹いて、風鈴屋に吊るされた風鈴がいっせいに、けれどそれぞればらばらに自己主張をはじめ、私の耳を騒がした。 神社の境内で、7月の終わりに一週間だけ夜店が開かれるんです。一緒に行きませんか、とはにかんだような笑顔を浮かべて言った橋本さんは、今は私の斜め後ろをうつむき加減に歩んでいる。 どの位置を歩いて良いのか決めあぐねているようだった。 まず神社に参拝し、それから露店を歩いて回ることになった。普段は閑散として静かに日の光がさしているであろう境内は、夜の闇からぼんやりと浮き彫りにされたようなオレンジの人工灯で埋め尽くされていた。 浴衣の割合も多く、時々砂利を踏む音に混じってからからと下駄の音が聞こえた。年若い二人の女の子が、朝顔と小手毬の浴衣を着ているのにすれ違う。おそろいの赤い縞の水風船を指からぶら下げ、リンゴ飴の屋台を眺めながら何事か囁きあっている。 その脇を、戦隊ヒーローのお面をかぶり、わたあめを両手に持った男の子が嬉しそうに駆けて行く。リンゴの甘い香りと、烏賊を焼く匂いが鼻先をくすぐった。 夏祭りのにぎやかさに緩和されてか、橋本さんとの重苦しい距離が少しずつ消えていくのを何となく感じた。橋本さんも私の後ろをついてくるような歩き方はやめて、反対方向からくる人々に気を配りながら私の横にいる。 「こういう所にはよく来られるんですか」 橋本さんは、くじの景品であるおもちゃをチラと眺めながら、幾分落ち着いた口調で言う。その先に軒を連ねるのは、どんぐり飴、フランクフルト、かき氷、ビニール人形、アイスクリーム・・・。 「ええ、小さい頃はよく連れてきてもらいました。でも最近は全く」 「いつでも来られる場所という訳じゃありませんしね」 はは、と橋本さんは見当違いの笑いを浮かべる。出し物の演目が始まったのか、遠くでどどんと太鼓の音が響いた。 コポコポと泡がはじける。モーターの独特の音。水の匂い。 「ああ、金魚釣りだ。懐かしいなあ。僕、こういうの得意なんですよ」 橋本さんは今までで一番弾んだ声で、小さい子供や若い女の子が囲んでいる一角に向かう。その背中にもう一人の影が重なって見えた。 どこか飴色がかった浅い水の中で、たくさんの紅と少しの黒色が所在なくひれを動かしている。苦しくて浅い水。 金魚。 ワキン、リュウキン、デメキン。 圧倒的な赤がちらちらする。 「来てご覧、みのり。お父さんこういうの得意なんだ」 お父さんは弾んだ声で、金魚釣りの水槽近くにしゃがみこむ。お母さんはまだ小さい妹のみづえを地面におろして、お父さんの後ろから覗き込んだ。 ようやく歩き始めたばかりのみづえは二三歩 歩いて疲れたらしく、私のまん前に来て「ののちゃん」と両手をあげた。みづえは私をののちゃんだと思っている。 みづえの背中に手をまわして、重い物を持ち上げる時と同じに、よいしょと力を入れて抱え上げる。みづえは柔らかくてばたばたと動いて、重い。 お父さんは金魚釣りのおじさんにお金を払って、針金の先に丸いもなかのついたすくう道具を手にすると、たくさんいる金魚を品定めしている。その隣でお母さんも腕まくりをしていた。 「お父さん、この赤と白のがいい」 私がみづえを支えていない腕の先で一匹の金魚を指すと、お父さんは「よし」ともなかの先を少しだけ水につけた。全部つけてしまったらふやけてすぐ取れてしまう。 「ぎょ、ぎょ」 みづえが嬉しそうに金魚に向けて丸い手を動かしていた。あまり水に近づけると、みづえは金魚をつかんでしまいかねないので、少し離れる。 「みづえは黒いのがいいんだって」 「じゃ、黒いのはお母さんね」 すっかりやる気になったお母さんが、金魚を入れるためのアルミのおわんを傾けた。得意だと言ったお父さんは一匹もとれずに、お母さんばかり次々三匹もすくった。もなかの上で金魚はびちびちと跳ねる。 みづえの黒いのと、赤い細いのが二匹。 「おかしいなぁ。ちょっと待ってろよ。すぐとってやるからな」 お父さんはむきになったように、いつまでも私がいいと言った赤と白のまだらの金魚をもなかで追いかけていた。もなかはふよふよと水の中で揺れて、もう半分とれかかっている。 「0匹でしたら、最後に1匹さしあげますよ」 折りたたみの椅子に腰かけた金魚釣りのおじさんが、愛想の良い声で言った。でもお父さんは意地でも自分ですくいたいみたいで、真剣に金魚の行方を追っている。 こんぶみたいにふにゃふにゃになったもなかがついに水に沈もうという時になって、ようやく針金に乗った目的の金魚がおわんに入る。 「やった」 「あー」 私の声にみづえも喜んで手を振った。重さが直に腕にかかって、こらえきれなくなった私はみづえをおろした。みづえはよろよろとした足つきで歩きながら、すぐ側のお母さんの背中にしがみついた。 金魚釣りのおじさんは、透明な袋に水を入れて、お母さんとお父さんがとった四匹の金魚を一気に移した。袋のふちには赤いビニールの紐がついていて、金魚によく似合っていた。 「家族四人だから、四匹ね」 「そう、家族四人の四」 帰り道、お母さんは袋を覗き込みながらそう言った。みづえをおんぶしたお父さんも満足そうにくり返した。 「帰ったら水足してやらなきゃなぁ。明日は金魚鉢を買いに行こう」 「お父さん、金魚すぐ死んじゃわない?」 私は狭い袋の中で口をぱくぱくとさせている細い金魚が気になって尋ねた。 「大丈夫よ。みのりは心配性ね」とお母さんは言った。 「みのりは優しいからな」とお父さんが言った。 金魚鉢は結局買わなかった。 お父さんの背中からみづえは「ののちゃん」「ののちゃん」としきりに私を呼んでいた。みづえは小さすぎて何を言いたいのかわからない。 ・・・あの頃、みづえは私に何を言いたかったのだろう。 今となってはもうわからない。 みづえは私を「お姉ちゃん」と呼べるようになる前に離れてしまったから。お父さんといっしょに。 今はどこかで新しい家族と暮らしているはずだ。その家には先に女の子がいただろうか。みづえはあの小さな口許で、その誰かをお姉ちゃんと呼んでいるのだろうか。 もしかしたらみづえの方がお姉ちゃんと呼ばれているかもしれない。 「金魚釣りは嫌いです。金魚は簡単に死んでしまうから」 橋本さんの背中を、私の声が追った。 「そう、なんですか」 さっきまで弾んでいた橋本さんの声は萎んで、眉が下がって情けない顔になる。もうお金を払ってしまったらしく、金魚すくいの輪っかとおわんを手にしていた。 「・・・最近の金魚はあれでも強いらしいですよ。金魚は、責任を持って僕が飼います。あ、安心してくださって大丈夫です。家の方にはちゃんとした水槽がありますから。エアーポンプもついているので、すぐ死なせたりするようなことはありませんから・・・」 橋本さんは一息に話してしまうと、私に背を向けた。私より大柄なはずのかがんだその背中は、何だかまた小さく見えた。私は橋本さんに対してとてもひどいことをしているような気になる。 「私も、お願いします」 私は橋本さんの後ろから、店のおじさんに声をかけた。硬貨を渡して、金魚釣りのセットを受け取る。 橋本さんの隣にしゃがむと、彼は意外そうな顔でこちらを眺めていた。 「長生きさせて下さい」 私は飴色の水面に目を戻して言った。金魚をすくう輪っかはプラスチック製で、薄いぺらぺらの紙が張ってあった。昔のようなもなかではなかった。 得意だと言っていた橋本さんは苦戦していた。私はたちまち黒いデメキンを一匹すくいあげた。何だ簡単、と思った瞬間、薄い紙はあっけなく破れて派手に穴があいた。 「おかしいなぁ、意外と難しい・・・。みのりさん、残念でしたね。でもお上手だ」 橋本さんは、何度も首をかしげながら自分の輪っかを覗いて見ていた。 「橋本さん」 「はい」 ふっと顔をあげる。私は水面を指した。 「この赤と白のがいいです。とって下さい」 「こ、この金魚ですね」 橋本さんは俄然はりきって、でも緊張した面持ちでシャツを腕まくりする。 散々苦戦し、紙を大量に水につけながらも、プラスチックの輪っかにひっかかった金魚を橋本さんはついに手に入れた。 安い透明な袋に、鮮やかな金魚が二匹。 「うちは他の魚も一緒に飼ってるから寂しいことはないですよ。こういうのが好きで。流木を拾ってきてディスプレイしたり、それに水草を生やしたりするんです。水草を植えるのにもこつがあって・・・」 帰りすがら橋本さんはよどみない口調で話していた。私は広い空間ですいすいと泳ぐ金魚の姿を思い描きながら、橋本さんと別れる時に言わなければならない台詞のことを考えていた。 「あ、つまらないですよね。こんな話」 私が黙っていることに気づいた橋本さんが、慌てたようにとりつくろう。私が何も返さないと、橋本さんは軽く息をついて、金魚の袋を自分の目の高さまで持ち上げた。金魚と顔をつき合わすようにして眺める。 「二人だから二匹だ」 何気ない言葉だったのだろう。 橋本さんは、しばらく金魚を見つめた後、あきらめたような笑みを浮かべる。 「これでいつも失敗してるんです。今日も・・・いろいろすいませんでした。みのりさんには面白くないことばかりで。金魚は、うちで大切に飼いますから」 二人の岐路。バス停に立った。 橋本さんの言葉は、別れの言葉だ。 慣れた仕事を一つこなすように。 「橋本さん、その金魚。やっぱりうちで飼います。私に下さい」 投げかけた言葉に、「え」と口を開いた彼は、金魚と私を見比べた。橋本さんは私に金魚を渡したくないようだった。少しの間逡巡して、それでも笑顔をつくる。 「どうぞ」 赤いビニール紐は私の手に渡った。 暗い道の向こうから、一際明るいライトと大きなシルエットが近づいてくる。バスだ。 「本当は」 道路を走る車の騒音に消されそうになりながら、橋本さんは声をあげた。 「金魚、今日の記念にしようなんて考えてたんです。けど、あなたなら大切に育てられると思います。金魚は簡単に死んだりしません。可愛がってやって下さい」 私はバスのステップに上がる。 バス停に佇む橋本さんは、取り残されたような顔をしていた。 「橋本さん、明日お時間ありますか」 「え?」 「水槽を買いに行きたいんですけど」 橋本さんはぽかんとした顔で見上げた。 「長生き、させたいんです」 バスの運転手が怪訝な顔でこちらを伺い、橋本さんは乗客ではないと判断したのか、ドアが音を立てて閉まった。 橋本さんは外で何事か言っている。 私は一つ礼をした。 極力動かさないように努めた袋の中身は、バスの振動でさざなみをたてる。 あの日の金魚が遠く、透き通った水の中でうつろった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
長っ。 久しぶりに真面目に書いた。 案の定、「緑のじゅうたん紙の花」とリンク。 短編をつなげようとするのはやめようと思いながらも、ネタが無い・・・。 (03,7,8) |