| 「桜、見に行こう」 突然、目の前に差し出された手に、安達は戸惑いを隠せなかった。 これはこの手につかまれ、ということだろうか。つかまってどうするのか。 高下の手につかまって桜を見に行く義務があっただろうか。いや、そんなものはどこにもない。 困って上を見上げると、高下が無邪気に手を差し伸べている。 まるで「一人で飛び出さないように友達とは手をつなぎなさい」と親や先生に教えられた幼稚園児が、砂場で遊んでいる友達に、すべり台で遊ぼう と 手を差し伸べて誘っているような無邪気さだった。 しかし、今は遊びの時間ではないし、ここは公園でも幼稚園でもないし、ましてや高下は幼稚園児ではなく、自分も幼稚園児ではなく、それ以前に高下の友達ですらない。 高下がその言葉を口にしてから長い時が流れる。 その間安達は微動だにできなかったし、高下も手を伸ばしたまま止まっている。 「じゃ、オレが」 安達の隣りからにゅっと伸びた腕が高下の手に重なる。 「お前が行くんかい」 腕を伸ばした主に、反対隣にいたもう一人がつっこむ。 高下はじっと手を見る。 「行きたいなら行ってもいいけど」 「冗談だよ。安達サン困ってんだろ。かーえーれーよ」 「でも今行かないと駄目なんだよ。今行きたい」 そんなことを困ったような顔で言われても、安達だって困ってしまう。 今は放課後、安達はB組にまで足を運んで、この学校に無数に存在する小委員会の一つに参加しているのだった。 「高下ー、お前、天候観測委員会だろう。よその委員会の領域に勝手に入ってくるんじゃないよ」 「うちは終わったよ。もうどこの委員会も終わってるよ。終わろうよ」 「また強引なことを・・・。でももうこんな時間か・・・。じゃあ、うちもそろそろ終わるかね」 元々B組で高下の性格も知り尽くしているこの委員会の代表は、自分もだらだらと続く話し合いに飽きていたのかあっさり終了する。 「終わった、終わった」 集まっていた生徒たちががたがたと席を立つ。 「お疲れー、安達さん。もう高下と行ってもいいぞ」 「え、」 帰り際、さりげなく委員長に声をかけられて、安達は顔をあげる。 高下と行くことは確定だっただろうか。この流れは行かなければいけないのだろうか。自分は高下とどうしても桜を見に行く義務が・・・。 「行こう」 有無を言わさない口調で言われて、安達はあきらめる。 高下は上機嫌で学校の敷地を出て、裏庭からつながる第二グラウンドを抜け、柵を越えて、どんどん山奥にまで入って行く。今年は気温が高く、早咲きであった桜はほとんど散ってしまったはずだった。 普段実習でも行かないような見晴らしのいい高台に、ぽつんと一本、安達の背の高さほどしかないほっそりした桜の木が生えている。 「見て、これ桜。なかなか育たなくって、周りに遅れてやっと咲いたんだ」 高下がその木の前にしゃがみこんで、桜の花を見上げるので、安達もその隣りで同じようにして桜を見上げた。 「見た?」 「見た」 「良かった」 高下はそれだけ言う。別に「綺麗?」とも「すごい?」とも何とも言わなかった。桜の花を褒めるでもなく、安達に同意を求めるでもなく、ただ見せている。 「委員会中に窓から外見たら雨が降りそうだったから、今のうちに見なきゃと思って」 「・・・あなた、そのためにあんなにまでして私を呼びにきたの?」 高下はうなずく。 安達はあきれるのを通り越して、何だか黙ってしまった。 見あげると、今にも雨が落ちてきそうなどんより曇った空。 灰色の背景に、桜の花色が薄ぼんやりとにじんでいく。強い風に吹かれて、ちらちらと雪のように繊細な花びらが舞い上がった。 雨の中の桜も変わらず美しいだろう、と安達は思う。 今年目に映る最後の桜。 安達は桜が好きだと言ったこともないし、高下に見せてくれと頼んでいた訳でもない。ましてや高下とはクラスも違うし、友達ではないし、どういう間柄なのか自分達ですらよくわからない。 けれど・・・ 来年の桜も、こうしてただ眺めるためだけに、高下は呼びにくるのだろうか。たとえ安達がどこにいても、まるで当たり前のようにあの手を差し伸べて。 |