花の名前 あたしが砂漠の砂の一粒だったとき、 旦那さんは広い空から降る雨だった。 あたしは旦那さんが降ってくるのを、日が昇って月と交代するまで 待って待って待ち続けているうちに 風に吹かれてどこかへ飛ばされていった。 あたしが深い海の底に沈む貝だったとき、 旦那さんは決まった時間に波の上を渡っていく船だった。 あたしは旦那さんに気づいてほしくて 口を開けて声を限りに呼んだけれども 小さな泡だけがのぼって消えていった。 あたしが庭の片隅の名前もない花だったとき、 旦那さんは、旦那さんだった。 あたしは時々窓辺に立つ旦那さんを見ていたくて 背伸びして背伸びして必死に大きくなったけど 強い嵐にあおられてぽきんと折れてしまった。 ねえ 昨日 そんな夢を見たんだよ。 屋敷の主人は、広大な庭に面したテラスの ウッドチェアにゆったりと腰をおろして、洋書のページをめくりながら、少女の話に、 「……そうか、」 とだけ応えた。 少女は本から顔もあげない主人を見て、少し寂しそうに、自分のみすぼらしいと思っている服のすそをなおした。 「あたし、あたしで良かった。旦那さんのところに走っていける、旦那さんを呼ぶことができる、 旦那さんに伝えることができる、あたしで良かったよ」 脇のテーブルでは、朝少女が摘んできた野の花が風に揺れていた。 「あたし旦那さんのとこにおいてもらってすごく嬉しい。旦那さんは名前の知らない花でも、きれいだって思ってくれるもの。 あたし馬鹿だから、なんて言ったらいいのかわからないけど、嬉しいの」 最後はひとりごとのようだった。 しばらく静かに洋書のページを眺めていた主人は、やがてぱたりと本を閉じた。 「……それなら、私も私で良かった。 私はお前から多くのことを教わった。お前は感情を偽ることなく、まっすぐに表すことができる。お前は優れた人間だ。 お前のような娘に会えて良かった。 花の名前は知らなくとも、お前が教えてくれるのだろう?」 「……旦那さん」 「雨もあがったようだ。この先の森の泉まで出かけてみるか。珍しい花が咲きそうだと言っていたな」 「すぐ支度してくる」 立ち上がった主人の脇で、少女はぜんまい仕掛けのバネのように跳び上がり、たちまち廊下を駆けて行った。 足音さえ少女の心の内を表しているようだった。 05,8,15 |