夏 雨 夜 空はとても高くて、夏は本当は遠い ――。 夏、雨が降ると、ねえさんは二階にある僕の部屋にきて、窓の桟に腰掛けていた。 軒下に置いた金色の鍋に、不定期に落ちる水滴が、ピタン、ポタンと音をたてる。 ねえさんは半袖からのぞく真っ白な腕を伸ばして、思い出したように雨に触れる。 僕は自分の机で宿題に向かうふりをしながら、それを見ていた。 その白い横顔と、灰色の空と、透き通った雨のしずくと ――。 暑さも時間も忘れて、ただそれを見ていた。 あ、め。雨。 夕闇に染まったすりガラスの向こうをぱらぱらと叩く。降り出した雨は、あっという間にざあざあと音を立てた。 「……決勝戦、いよいよ始まります」 雨の音に、テレビからアナウンサーの興奮した声がまぎれる。 フライパンを火にかけるのはやめにして、冷蔵庫から出した豆腐を皿に移し、缶ビールとともにテレビの前に並べる。 ヴヴヴ・・・新しく鈍い音が同じ机の上で加わった。 閉じたままの携帯電話が、緑の光を点滅させてメールの着信を告げる。 『治親、今どこ? 傘持ってなくて。今大学の図書館なんだけど、迎えにきてくれない?』 鳩子からだった。11の冬に家族になって、18の春まで同じ家で過ごした姉。 いつもは「ハルちゃん」と十やそこらの子供みたいに呼ぶくせに、メールの時だけ、その画面上でハルチカと呼び捨てる。 狡いと思う。 何ヶ月も前から楽しみにしていたサッカーのTV観戦を放り出して、ナイロンのパーカーを羽織り、傘を片手に暗い雨の中とび出していった。 狡い、と思う。 ―― ねえ、ハルちゃん、私たち似てると思わない。ハトコとハルチカ、同じ「ハ」から始まる名前。本物の姉弟みたい。 初めからそうなるように決まってたみたいでステキね。 何でも簡単に「ステキ」にできてしまう。 自分の中の運命や神サマを信じている人だった。 小学生高学年という不安定な年頃で、何でも素直に受け入れられなかった自分に、そう言って笑いかけた鳩子は、今思えば自分よりずっと大人だったのかもしれない。 その頃、その笑顔にどうしても向き合えなかった。 アパートから歩いて十分の大学。裏門からすぐのところに図書館はある。薄緑の電光の下に、鳩子はいた。大きなかばんを抱えるようにして、雨が落ちる外を見上げる。長い黒髪がさらさらと肩にかかった。 こちらをみとめて、彼女はやっぱり、笑う。 「ごめんね、私一人だったら濡れて帰っても良かったんだけど、ほら、これがあるから。明日までにまとめなきゃならない資料なのよ」 くるむように抱えていたかばんからのぞくのは、分厚い図書館の本数冊だった。 昨日も雨で、朝から曇っていた。週間天気予報でも何日も前から散々言っていた。 「今日のこの日に傘持ってきてない意味がわからない。これから決勝ってとこだったのに」 「え、サッカー? 今日だったっけ? ああ、ごめんね。今度必ず何かおごるから」 「ねえさんの必ずなんてあてになったためしがない」 「失礼ねえ」 駅までの道を歩きながら、恨み言を並べてみる。高校卒業と同時に家を出た自分と違って、 鳩子は今も電車で三十分の実家から大学へ通っている。 「貧乏学生の家には傘だってこの1本しかないのにさ。雨って面倒だから嫌いなんだよな。夏の夜の雨なんて最悪。暑いし、湿気はひどいし、陰気だし」 「私は雨って好きだけど」 鳩子はいつだって笑って受け流す。 あの頃と一緒だった。何を言っても優しく笑っている鳩子を困らせたくて、たくさん無茶を言った。自分は、何一つ変わっていない、ただの気をひきたい子供なのだと、いやになる。 ―― あんた、いつもここきて何があんの。 ―― 雨って好きなの。 答えにならなかった。 なぜ自分の部屋にくるのか。 窓の桟に腰掛けて、本や写真を眺めたりしていた。時折、学校であったことを聞かれたりしたけれど、ろくに返事もしなかった。 親に良いお姉さんを見せつけたいだけの嫌な女だと思った。 元からの家族じゃない。空気じゃない。いないと思おうとする方が無理だった。 どうして鳩子は笑うのだろう。大人に向けて笑う、親に向けて笑う、困ったときも笑う、寂しいのに笑う、悲しくても笑う。 笑いは彼女の鎧だ。 本当は知っていた。その笑顔がすべてを受け入れてくれるものではなく、一定の距離から近寄らせないものなのだと。 知っていたからこそ余計にいらいらした。 自分は幼い頃から、愛嬌のないとっつきにくい子供だったと思う。 高校の時、街中でショーウインドウに映った自分を思いがけず目にした瞬間、その顔にどきりとした。普通にしていたはずなのに、その顔はへらっとした笑いを浮かべていた。 偏屈で意固地な子供だった自分は、いつ笑うことを覚えたのだろう。 誰を見て覚えたのか、それに気づいた時、あきらめにも似た自分の思いを悟ったのだ。口には出さない。知られてはならない。 本物の家族みたいでとてもステキだ、と彼女なら言うだろうから。 駅までは歩いて二十分。 「あさってゼミの打ち合わせがあるの。今度発表だから」 「グループのやつだろ」 「吉永助教授も見にこられるのよ。失敗できないわ」 ひとつの傘の下、図書館の本をかかえながら嬉しそうに鳩子は言う。 鳩子は今、この歳の離れた助教授を一方的に慕っているのだ。 学生に特別人気がある訳でもなく、パッとしない地味でおとなしそうな教授。植物について独自の論を語る時の顔がステキだったのだと彼女は言う。 鳩子の好きは、いつも理解できない。 中学校の廊下ですれ違った他校の先輩、通り道の花屋で見かけるアルバイト、高校の時の音楽の先生……。唯一共通しているのは年上の人ばかり。なぜか いつも遠い隔たりのある存在ばかりで、でも嬉しそうに話すから。――思い知らされる。 鳩子の好きが、実ることはない。大抵伝える前に、相手がいることが判明するからだ。 けれど、今回は……。本気、だろうか。 じんわりと明かりの広がる駅前にたどり着く。ここからもう傘は必要ない。 「……前から一度聞いてみたかったんだけど、なんでそんな脈のない人ばっか好きになるの?」 「そうねえ。……高いところにいる人が好きなの。手が届かないくらい高いところ」 「理想が高いってこと? そんなの、つまらないだろ」 そう言いながら、その思いが叶ってしまったら、その時、自分はどこにいるだろうと考える。 鳩子はあっさりと傘の下から出て、こちらに向きなおった。 当たり前だけど、この傘はなんら彼女をしばる効力を持っていなかった。 「手が届いてしまったら――」 「手が届いてしまったら?」 ずっと前から探していたパズルのピースがはまるように目が合った。少しの間見つめあう。 鳩子は、笑っていなかった。 「何でもない。傘、ありがとうね。ハルちゃん」 電車がくるからと、鳩子は改札口をくぐって出て行った。 ざあざあと雨は降る。夏の雨はじきにやむだろう。 その白い横顔と、灰色の空と、透き通った雨のしずくと ――。 この思いも、夏のスコールのように通り過ぎ去ってくれればいいのに。
6月の頃に書こうと思って。
その頃には多分書きたいことがあったんだろうと思うけど。 実際書いてみたら、また見失った(−−;) (05,7,31) |