海の声が聴きたい 




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 放課後、窓際の席で一人、問題集を開いた。
 今日はどこかで英語か何かの講座が開かれているらしく、教室に人影はなかった。講座に参加しない生徒も、塾のために下校したか、図書室にでも足を運んでいるのだろう。 何かと不便な教室に残ってまで勉強をしようという奇特な生徒は自分しかいない。
 開け放した窓から迷い込んだ風がカーテンを大きく揺らした。
 ぱらぱらとめくれ始めた問題集の端をペンケースで押さえる。
 台風が近づいているのだろうか。風が強い。
 校庭では、台風の接近など問題にしない運動部の喚声があがっている。規則正しいランニングの足音、野球部の掛け声。運動部の三年生は今年の夏で引退した。 どことなく開放的な響きが混じっているように思うのは気のせいだろうか。
 校舎の四階からは吹奏楽部の演奏が始まってはとまる。この曲は“Beauty and the Beast”。文化系クラブの三年の活動は11月の文化祭までだ。
 こちらの校舎は校庭に面しており、窓を開けると外の音が最もよく聞こえる。
「発声練習始め」
 唐突に、窓のすぐ下くらいから凛とした声があがる。それに複数の声が響いた。
 それに耳を澄ましながら、数学の長い文章問題にとりかかった。
 三階にあるこの教室を真下に降りて正面にあるのは、朝礼台である。その周りを拠点に活動しているのは、朗読同好会の面々だった。

 一通り、基礎的な発声練習が終わると、個人の練習に入る。
 各々が文豪や詩人の作品の中から、好きな箇所を自由に大声で朗読するのだ。

 金子みすゞの詩を高い声で区切って読んでいるのは女子。
 それに男子の声で中原中也の詩が続く。
 ウケ狙いなのか大真面目なのか古典調の作品を選択するものもある。流行りの歌謡曲の歌詞を読む声もあがる。


 太宰治が始まったあたりで、二問を解いた。
 太宰治が終了した頃に、次の頁に移る。
 「潮騒が……」
 その一声が耳に入った瞬間に、走らせていたペンの手をとめた。同じ生徒でも同じ作品を毎回朗読するとは限らない。大抵が日によって違う。その中にあって、必ず同じ作品の同じ箇所を朗読する声があった。
 海の章。この声が聞こえると、自分はいつもはるか遠い海を想像する。日のきらめき、寄せる波のざわめき、潮の匂い、遠い島々。
 海の章はすぐ終わった。
 入れ替わりに、違う声で宮沢賢治が始まった。
 止まっていた思考を復活させて、再び問題集に向かう。解けかけていた問題は、今初めて見たように難しかった。鼓動が静まらない。
 誰があの章を読んでいるのかは知らない。知っているのは声だけ。少し席から立ち上がって、窓に向って、下を覗けば済むことだ。 即座に解決する。これほど簡単なことはない。だが、これほど簡単なことがどうしてもできなかった。
 この声の主を知ってはいけない気がする。
 声で ―― 人を好きになるとは思わなかった。



 教室にオレンジ色の日が満ち始めた。
 チャイムが鳴り、放送がかかる。

   下校時刻になりました。校内に残ってクラブをしている人はすみやかに………

 放送途中に、教室内にどやどやと人が乱入してきた。教室に置いたままの鞄をとりに来る文化部の三年たち。雑音が帰ってくる。
 今まで静かだった教室が嘘のように活気を増した。
「あれー、まだ残ってたんだ。それ、どこまで進んだ? 委員長、頭いいもんねー。国立狙いでしょ?」
 机にどすんとサポートバッグを放り投げた前の席の女子に声をかけられる。
「こっちは勉強に専念できないし、大変よー。ま、楽しいからやってんだけど。じゃね」
 早口で一方的にまくしたて、彼女は自分の鞄を片手に友達と教室を出て行った。
「よ、頑張ってんな、受験生」
 今度は隣の席に鞄をとりに来た人物に声をかけられる。
 ……自分だって受験生だろうに。
「勉強のしすぎで体こわすなよー」
「ばいばーい、委員長」
 入れかわり立ちかわり教室に入っては出て行って、自分の席付近のものは適当に声をかけていく。この中に、あの声の人物がいる。朗読の声と普通に話す声は違うものだろうが。おそらく。
 知ってはいけない。
 この席に居座る理由ももうなくなって、問題集を薄っぺらい鞄につめて席を立った。



 昼休み、屋上でコンビニのパンを食べ終え、一休みのつもりで開いた問題集を顔にかけてうとうとした。
 気がついたら、昼休みが終了して十五分を過ぎていた。
 次の授業は何だっただろう。わざとではないにしろ、遅れて教室に入るような目立つ真似は御免だった。三年のこの時期はどうせほとんどが自習か問題集の解説だろうから、このまま屋上で問題集を片付けることにする。
 屋上の柵に両腕をもたれかけさせて、手持ちの国語の問題集を開いた。
 台風はまだ来ない。
「サボり」
「どっちが」
 突然に現れた後ろの気配に、反射的に返した。
「自習だよ。自分で学習する。場所は関係なし」
 へ理屈を並べて、隣りで同じように柵際に立つ。そのままぽかんと空を眺めだした。目的はわからない。目的なんて始めからないのかもしれない。雲の流れが速かった。沈黙の中で、問題集をめくる動作だけが繰り返された。
 ある例文を見つけて、手がとまる。
 すいっと顔をあげた先には、遠くビルやデパート。工場の煙が入り乱れた雑踏の向こうに、一本の、本当に細い線のような筋が見えた。
 海だ。
 目測で5cmにも満たない短い短い一筋。
 それでもこの屋上が、学校から海が見える唯一の場所だ。
「俺、海に行ったことがないんだ」
「うっそ、マジで?」
 ぼそりと呟くと、隣でぽかんとしていた表情が起きた。
「だって委員長、四国からうち受けて渡って来たんじゃなかった?」
「四国だって広いんだよ。住んでたのは内地のほうだ。遠くに出掛けたりすることのない家だったからさ。海を見たのは、こっち来るときに、橋の上から目に入れただけだな。それも走ってる車の中からだった」
「車の中ってガラス越し? それじゃダメだよ。TVで見るのと変わんないよ」
「そうだな。思ったより青くないんだな、くらいにしか思わなかった」
 起きた表情はあきれた顔に変わった。
「冷めてる」
「今思うともっとよく見とけば良かったと思うよ。少し後悔してる。海辺まで行って、車から降りて、ちゃんとこの手で触ってみれば良かった。
「また行けばいいじゃん。受験控えてる今は無理だと思うけど、大学入れば」
 そこまで口に出してつまる。つまるところを見ると、こっちが目指している第一志望の大学は知っているようだ。中央にある山に囲まれた国立の大学。
 今はかろうじて線のように見える海も完全に見えなくなる。
「委員長なら絶対受かるから。遠出していけばいいよ」
 それからそう言った。
 多分、そこに受かっても自分は海へは行かないだろう。そう思った。
「お前、この例文読めるか」
 先程手をとめたままだった問題集の頁を前に出した。落ちた視線がさまよって停まる。それから射抜くように見られた。
「いいよ」
 先程の目が嘘みたいにあっさりと問題集を受け取る。間近で声が発せられた。

   海面は太陽の反射を受けて綺羅綺羅と輝いた。潮騒が私を満たす心持ちがした。……

 朗読は続く。

   ―― 私は海の内に在り、海は私の内に在る。

 進学校の授業中の校内は驚くほど静かだ。がらんとした屋上に声だけが生まれては消えていく。
「問いは……、えー、《 海は私の内に在る 》とは主人公のどういう気持を表したものか、文章中の言葉を用いて25字以内で書きなさい、だって。なお句読点は含まない」
「もういいよ。もうわかった」
 問題集を受け取った。
 もうわかった。


 豆粒のような街並みと雲の速い空を見つめた。
「お前、進路決めたの、」
「東京の専門に行く。やりたいこと見つけたんだ」
「そっか」
 5cmの海を見つめるふりをして、隣を盗み見た。半袖からのぞく腕が白く光って見えた。 直に衣替えだ。下からの風に吹きあげられた前髪が持ち上がった。自分も同じようになっているのだろうと思う。下に投げた問題集がはらはらとめくれた。
 遠い街並みにまっすぐと左手を伸ばす。中指のてっぺんに、一筋の線が重なる。その青とも紺とも金とも白ともつかないきらめきに。
 確かにそこに見えるのに、確かにそこに存在するのに。
 触れないものはある。

 海の声が聴きたい。
 無性にそう思った。







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瀬戸内の方言満載でお送りしようかと思ったけど
やめました。
朗読同好会って一体…。
(03,9,14) 




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