傘かしげ もうフルートなんてつまんない。だってすかすかで全然 音が出ないんだもん。 まだ習い始めたばかりなんだから仕方ないよ。やめないで続けていればきっと上手になるから。 そうかなぁ・・・。 幼い頃、父親と手をつないで歩いた音楽教室からの帰り路。大きな一つの傘をパラパラと雨が叩いて。小路には色とりどりのアジサイが咲いていた。 鳩子にはアジサイ色がよく似合うね。 お花の色? そうだよ、これから練習をして もっともっと上手になったら、いつかアジサイ色のドレスを着て舞台の上でフルートを吹く鳩子を観るのが、パパの夢なんだ。 はとこもドレス着たい! 上手になったらドレス着れる? じゃあもっともっと練習する。 ――― でも、アジサイ色って何色なの? 青、薄紫、ピンク、白、赤、水色・・・、たくさんありすぎてわからないよ、ねえ、お父さん ―― 。 薄暗い朝を起きると、サアサアと音がする。窓を開けるとしめった雨の匂い。 梅雨入りの発表はいつだったかしら。 ああ、今日は午後のレッスンもある日だというのに。 雨のせいなのか、ひどく子供の頃の夢を見た。 音楽が趣味だった父親は、そのまま自分の娘に夢を託した。思い通りに吹けないフルートなど最初は興味が無かったけれど、半分は父親の喜ぶ顔が見たくてはりきっていた。 それなのに。託したまま見届けもせずに、家を出て行ってしまったけれど。 もう義理立ててフルートを続ける理由もないのに。 よくある父親が簡単に夢みたように、光を浴びる舞台に立てるような才能もなかった。 どうして続けているのだろう。 楽器のケースに防水のカバーをかけて、身支度をする。湿気を帯びた空気に長い髪を、小物入れからちょっと迷って、選んだアジサイ色のバレッタでまとめた。 「行って来ます」 「雨降ってるぞ。傘持ったか? 気をつけて」 出がけにリビング前を通るのに、新聞を読んでいるお義父さんに声をかける。 まったく音楽に詳しくない次のおとうさんは、わからないなりにいつも褒めてくれて、ちょっと過保護だ。 大学のある街の駅。少し離れた所にある楽器店に寄りたくて、バスに乗る。 南口から降りると繁華街なのに、北口はうってかわってのどかな風景が広がる。 少し辺鄙な小高い所にある店で用事をすませて、バス停まで下りる道をさがす。 そういえば、治親と加茂さんがアルバイトをしている喫茶店もこの近くだっけ。 知らなかった。 働いている先も一緒だなんて。 そんなに自然に居ることなんて。 今まで誰とどんなに親しくしたって、特定の一人を選ぶことなんて、なかったじゃない。 どんどん知らない治親が増えていく。自分と一緒に居た時間より、加茂さんと居る時間の方が追い越すのは、そんなに遠いことじゃないのかもしれない。それでいい。それで、いい。 ふと、遠くアジサイが目にとまって、いつもとは違う初めての路に分け入ってみる。 嘘みたいに細い小道。 もともと人気の少ない辺りだけど、バイクがかろうじて通れるくらい、人一人すれ違うのにも避けなければならないような路だ。 下の方の畑には誰が植えたのか、よく繁ったアジサイ群が続いていた。 青、薄紫、ピンク、白、赤、水色・・・一つとして同じ色はない気がして、遠目に眺めながら歩くのも綺麗だと思った。 人気がないとはいえ、午前の道、前から黒い傘が揺れながらやってくる。 すれ違う際に、気持ち自分の傘を横にかたむけたが、軽くガツッと乱雑にあたって黒い傘の後ろ姿は通り過ぎていった。 顔さえ見えない。雨で不機嫌なのか、足取りも忙しない。 “ 傘かしげ ” 6月に入って、講義で吉永先生が本題の前にとりあげていた言葉を、ふと思い出した。 雨の日に狭い路地ですれ違う時に、お互いに傘を傾けて通る動作の事をさすそうで。 要は思いやりの心について言いたかったようだけど。 一人じゃ成立しないみたい。 肩にかかった滴を少し手ではらった。 前からやって来るのは、今度は、ビニール傘。深く前にかかげて、何やらかさばりそうな紙袋の荷物を抱えている。 雨をよけるのに集中して、前なんて見えてなさそうだけど。 すれ違うのに、期待せずに、傘を傾けるとすっと何の抵抗もなく通れた。 傘かしげ。 通りすぎる際に、斜めにした傘と傘の下、近すぎるくらい見なれた茶色の髪。 「・・・鳩子、?」 「ハルちゃん」 「何やってんの、こんなとこで」 「ちょっと上の店に用事があって…」 何気ない仕草が重なった見知らぬ相手が治親だったことが妙におかしくて、少し寂しくて。 少し、笑った。 「なんか笑ってるし」 わざと不気味なものでも見るかのような目つきをする治親に。 「ハルちゃんは、優しいのね」 「へ?」 傘かしげのことを話したら、「そんな安い優しさでいいのかよ」、と表情を崩して笑った。 湿気のせいか少しクセが強くなっている柔らかそうな髪を、手を伸ばしてなおしてあげたくなる気持ちをおさえて蓋をする。 治親のその髪も子供の頃からよく知っていて。でも突然、知らない方の治親の世界が広がっていて、治親にはそれが当り前で。それでもどこか根っこの方では同じだって、思い合ってるって、そういう夢をみていたかったのかもしれない。だってわたしたちは。 「ハルちゃんは買いだし? 朝からも働いてるの、」 「うちは休講で今日は特別。最近 シフト増やしてもらったからわりと忙しくって」 「・・・・・加茂さんも一緒なの、」 「そ。ハトコもまた加賀サンと来てよ」 へらっと笑う。 とん とやさしくつきはなされた気がした。 「そうね、」 だから笑い返す。 それでいい。 「そろそろ行くわ。ハトコの髪のそれ、新しいやつ?」 「バレッタ? もらったの」 「へー、男?」 「女」 「ふーん、いい色だね、アジサイみたいで」 じゃあ、と治親はくるっと傘を向けて、上って行った。 だってわたしたちは。そうでしょう。ずっと傘かしげをするかのように。 相手のために、相手にふれないように。 バレッタに手をあててみる。治親もアジサイ色だって思ったのね。 青、薄紫、ピンク、白、赤、水色・・・たくさんありすぎて。 移り変わるけれど、一緒に過ごした時間は嘘じゃない。 これから先も別々の道を進んでいくけれど、いつか今日みたいにどこかですれ違ったとしても、こんな風に同じ色を選べるでしょう。 気がつけばまた、手の届かないものをあきらめる言い訳をさがしている。 雨の水滴をはじく楽器ケースを胸に抱えなおした。 これだってそう。 誰かのせいじゃない。義理立てじゃない。潔く思いきれないのは、好きだからだ。
万年 雨の世界…。
朝のローカルニュースで耳にした「傘かしげ」 という言葉を使いたいがためだけに。 (14,6,24) |