歌 の 化 石 この声が風化して砂に埋もれ、石の塊と成り果てたら ――。 私は私でなくなるのだろうか。 大学での空き時間は、講堂の屋上で歌をうたう。 防音の声楽科の練習室とは違い、発した声は吸い込まれるように白い空に消えていく。そこで声を張り上げることなく、静かにうたうのが好きだ。 地面の砂の一粒のように目立たなかった自分が、唯一みとめられたのが歌だった。 だから、空の何もないところに向かって、歌をうたう。 寂しい思いに、歌をうたう。 彼は、講堂の向かいにある大学図書館の資料室で、古生物を思う。 風の冷たい中、いつでも窓をちょっとだけ開けて、彼は調べものをしている。叩くとほこりの出そうな分厚い古い本を、なめらかな指で丁寧にめくって。 彼は資料の化石が陳列されたケースのある窓際の席に座る。そして時々、にぶく光る小さな鍵でショウケースを開き、沈黙する石のかけらを、懐かしそうに日に透かすのだ。 どうしてだろう。 講堂の屋上から、向かい下の資料室にいる人を見つけた。それだけのことだった。 それだけのことなのに、私は彼が懐かしかった。ずっと待ち焦がれていた人のように、ただただ懐かしかった。 図書館に用がある折に、遠くにいる彼を見つけて目を細める。 化石を見つめる彼を見ながら、私は彼の頭の中を思う。 地球上に人類のいないはるかな時代、深い緑に澄んだ水をたたえた底に、硬質な銀の光がゆっくりと反射する。 沈んだアンモナイトが、海底の石にぶつかってたてる音は、きっと今までもこれからも聴くことがない音 ―― なのだろう。 ふいに、たまらなく寂しい気持ちになる。 どんなに彼が古生物に思いを馳せ、確かな答えを見出そうとも、決して、彼が地上で古生物と出会うことはないのだ。 それで彼は、あんな懐かしそうなまなざしを遠い過去に向けるのだろうか。 それは焦がれても焦がれても届かない思いに似ている。 決して逆戻りしないループの中で、あの人の頭の海を泳ぐ古生物になれたらどんなにいいだろう。 私は彼を見つけても、彼は私を知らない。 私、という存在さえ。地上の砂の一粒のように。 けど ――。 その本を手にとったのは、ほんの気まぐれだった。気が向いた棚と棚の間を歩いて、ふと目にとまった題名 『アンモナイトのみる夢』。 彼の領域に惹かれて、古い分厚い表紙の扉を開いてみた。 「あ、その本……」 静寂の館内で、無人だと思っていた背後からの声に、取り落としそうになる。 「すみません、ちょっと見ていただけですから。どうぞ」 慌てて本を元の棚に戻し、場所を譲った。 「こちらこそすみません。口に出てしまって。せかすつもりではなかったのですが」 棚を離れようとして、視線の端に映ったのが彼だったことに気づく。彼の声を聞いたのが初めてだったことにも。 耳の奥に熱を残して、離れるために足を進める。 「ああ、あなた。その声、屋上でうたっている人だ」 思い出したように付け加えられた言葉に歩みをとめる。 「時々窓を開けて聴いていました」 少し笑って続ける。 ―― 彼は、私を見つけていた。 私は屋上で空にうたう。彼は海の底に古生物を思う。 もう寂しいことはない。 この声が風化して砂に埋もれ、石の塊と成り果てても ――。彼が、私が私であったことを見つけてくれるだろうから。
はじめ、タイトルは 「歌石」 にしようかと・・・(だじゃれ;)
もやもやとこう、実現することのない古生物と古生物学者の邂逅 みたいなのが書きたかったのですが。また書けてねえ・・・ (06,1,15) |