鴨のいる場所



 自分にとって本当に大切なものに気づくのは、それを失ってからだと、何かで聞いた。
 加賀が留学すると知ったのは年も明けてからのことだった。
 倉田も同じ国へ行くのだと知ったのはその少しあと。


 部屋の隅にはもう居ない。
 思い出さなくていい余計なことが横切るから。
 コンビニのバイトはずっと前にやめてしまった。聖堂脇の外階段にももう行かない。
 鴨のいる場所はどこだろう。秋に日本へ渡ってきて、春、北方に帰る。
 鴨なら北へ帰れたろうに。
 鴨でもない自分はどこにいればいいのだろう。


「おお、あんた。久しぶりだなー」
 昼も近い学内のテラスで、前から歩いてきたハルチカに指をさされた。
 まだ気まぐれに寒さの残る屋外で、片手をポケットに突っ込み、日に透けた髪を揺らして寄ってくる。
「このごろぜんぜん階段で見ないから、学校来てないのかと思った。オレのケータイ、学生部に届けといてくれたのあんただろ。 気づいたらいきなりなくってさー、焦ったーー。慌てて自分の番号にかけたら、出たきりずっと無言電話だし。
 なんかさ、あんただろうなって思ったんだよ」
 ハルチカはアハアハと笑う。
 何が起ころうとハルチカは相変わらずハルチカで、言い訳を探すのをやめた。
「でさ、これ撮ったのもあんただろ?」
 ハルチカは笑いの形に細めていた目を開けて、ポケットから出した携帯電話の画面を突き出す。
 あの日閉じ込めたままの空が狭い四角の中にあった。
「これ見てちょっと思った・・・・・・。あんた、どんなときでも無表情っていうか、弱いとこなんてありませんって顔してるけど、ほんとはいっつもなんか哀しいのかなって。
 ・・・・・・あんた、少しだけ姉貴に似てるよ。あの人は感情隠すの下手くそだけど、あんたはそれが上手いだけなんだ、って思う」
 ハルチカは鼻の頭を少しかく。
「あんたこういうこと言われるの嫌いだって知ってるけど。あの人には、言えそうもないから、あんたに言う。
 思ってることがあるなら言えばいいんだよ。なんも怖くないから。
 ・・・・・・・・・・・・まあ、姉貴一人に怖気づいてるオレが言っても説得力ないんだけど」
 ハルチカはへらっと笑う。その笑いは少し力なかった。
 何も怖くない。
 ―― 怖くない。嘘でも気休めでも、誰かにずっとそう言って欲しかった。
 他人の言葉を優しいと思ったのは初めてだった。
「・・・・・・・・・・・・ありがとう」
 口にすると、彼はきょとんと目をあけて、それから少し照れた。


 少し早めに急ぐ足どりだとか。
 肩の揺れ方、髪の吹き上がり方だとか。
 目に映る他人にどうでもいいことばかり重ねて探していた。
 何度こんな思いで背中を見ていただろう。
 いつだって、声をかけてもらうのを、自分を見つけてもらうのを待っていた。
 失うことが、とりかえしのつかないことや消えて無くなってしまうことだとしたら、加賀はまだそこにいる。
「・・・・・・・・・・・・加賀、」
 喉の奥から絞りだした声はかすれていた。いくらか先を足早に進む加賀の背中は立ち止まらなかった。
 手の先は冷たい。足は凍りついたように動かない。このまま貝のように口をつぐんで、この場から立ち去ったらどんなに楽だろう。 その考えに甘えそうになる。
 でも、前を見た。
 背の高い後ろ姿に走り寄って、ジャケットの袖に手を伸ばす。
「・・・・・・」
 振り向いた顔は、幽霊でも見えたかのようだった。
「加賀、・・・・・・・・・・・・加賀以外の人は皆嫌い」
 加賀は眉間にしわを寄せる。苛ついている顔。
 苛つかれるのはわかっている。でもこんなことしかできない。
「・・・・・・何だ、それ」
 加賀は低い声で言った。
「いつも加賀のこと探してる。加賀か、加賀じゃないかで人を見てる」
 だから何だろう。
 望むことはないのに。何も望めないのに。どこにも居ていい場所はないのに。今度こそ本当に言葉がなくなって、つらくて下を向いた。
 加賀の靴の爪先と、自分の靴の爪先がやけに鮮明に見える。
 ふっと前髪の辺りが重くなった。前髪に触れた体温は二三度押しつけられた。
「お前何が言いたいのか全然わからない。何考えてるのかも読めないし」
 冷たいけれど不思議に柔らかな冬の匂いに包まれる。羽根に首を預けた鴨はきっとこんな風に安心するのだろうと思う。
「でも・・・・・・、お前が倉田を好きになったんなら仕方ないと思った」
「・・・・・・、」
 加賀は意味不明なことを言う。何を考えているのかわからないのは加賀だ。倉田を好きになったのは加賀の方なのに。
 話したのは一度きりだったけど。いつでもふらふらと迷う自分とは違って、心の通った綺麗なヒト。記憶の中の大人びた黒目がちの視線にとらわれる。
「俺の知らないとこで見るたびに一緒にいるし、下の名前で呼ぶし。俺には少しも懐かなかったのにって」
 加賀は頭の上でため息をつく。
「倉田さんを好きなのは加賀じゃ・・・・・・」
「倉田サン? 違う。俺が言ってんのはその弟の方。倉田治親だよ。知らなかったのか」
 ―― ハルチカ。
 好きになったんだから仕方ないけど。
 ハルチカの少し寂しそうな顔が浮かんだ。彼が想っていたのは ――
「前に言った。俺も怖いものがあるんだって。お前わからないから、わからない分だけ怖かった。平穏じゃいられなかった」
「・・・・・・ハルチカはトモダチ」
「ふうん。俺は?」
「・・・・・・加賀」
「何だよそれ。違うだろ」
 加賀は少しだけ笑った。冬の息がかすんでいる。
 加賀の服にまとわりついた空気が伝わってくる。ゆるやかな冬の残り。
 あの暗くて静かな部屋の隅から、ようやく自分の居場所を見つけたように思った。居てもいい場所じゃなく、居たいと思う場所。


 何も知らなかった小さなころ、冷たい冬の川にいる鴨を見てどうしようもない衝動に駆られた。自然の生き物と自分の世界の違いを突きつけられて、どうすることもできなかった子供のころの記憶。
 入学式で初めて見た時、あの頃絶対に触れることのできなかった鴨をもう一度見つけた気がしたのだと。
 後で加賀は言った。

 春、いつのまにか近くの川の真鴨は北方の空へと旅立っていった。それと同じ頃、 加賀も留学のため日本を発った。
 またゆっくりと時が流れて、辺りに冬の匂いが漂い始めるころ、鳥たちと一緒に海を渡るのだろう。 それまで鴨はひとり部屋の隅で待つ。それも悪くない。






春だから大目に見てください。
気が向いた時にさっと書ければいいなと思っていた鴨の話。
当初の思惑とは違った方向にそれていきました。
(05,3,26) 



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