青の一枚 壁に背を預けて、膝を抱え、そこに顔をうずめる。 そうすれば何も怖いものなどない。 「お前の寝方、野生動物の寝方だな」 そんなことを加賀が言っていた。 自分の羽根に首を預けて眠る。常に警戒をして、片時も気を許さない。 ―― お前はずっと何か心配なんだ。 他人に近寄られるのが嫌いだ。注意を配る対象が増える。 安心できるのは自分の体温だけ。 不安なら体を丸めて小さくなる。何かから隠れるみたいに。寒ければ両腕で膝を抱える。堅く閉じこもるように。 そうしていると、加賀はよく額の辺りに触れてきた。 ふりむきざまに、前を通り過ぎるついでに、寝転がっている時に、ちょっとゴミを払うみたいに。 前髪の具合が気になるんだと言う。真っ直ぐすぎて気になるんだと。 そっと撫でるように軽く通り過ぎる。 他人に触れられるのは何よりも大嫌いだったけど、我慢した。 加賀がそうすると、何か張り詰めていたものがふっと緩んで軽くなった、ような気がした。それに気づいたのは、ずっとずっと後だったけど。 ハルチカは講義の空き時間にたまにやって来るようになった。 外階段の踊り場で。新しい作品を見せたり、なにやら喋ったりして適当に帰っていく。 彼は彼なりに何か思うところがあったらしい。 「それにしてもさっむいなぁ、ここ。あんたよくこんな真冬に外にいようと思うね。ラウンジにでも行く?」 嫌だと首を横に振ると、ハルチカは肩をすくめて、もうその話題には触れなかった。 ハルチカはその見た目とは裏腹に至極あっさりとしている。 めったに干渉してくることもないし、無理にこちらの領域に踏み込んでくることもない。返答も求めない。ただそこに自由にいるだけ。 それが心地好かったのかもしれない。 「オレ、景色にいっつもフレームかけて見てんだ。ここがこうなって、これがこっちにくればいいのになぁって。ごくたまにそれがぴったり当てはまる瞬間ってのがあって、そういう時に撮る。貴重な一枚」 「・・・・・・・・よくわからない」 「撮ってみなけりゃわかんないよ。心が動いた時に撮るんだ。どんな感情だってかまわない。それを写真に込める」 「・・・・・・・・これもそうなの」 開いていたファイルの最後の一枚を指差す。灰色の海へ向かってしっかりと地を踏みしめて立つ、一人の少女の後ろ姿。 ハルチカは眉を下げて変な顔をして、珍しく口ごもった。 「これは、姉貴」 「・・・・姉さん」 「そう、姉貴が13でオレが11の日。まあいろいろジジョーがあって血がつながってなかったりするのですが」 ハルチカはエキセントリックな帽子の角をちょっとあげる。 「うちの親再婚同士だから。11ん時、いきなり引き会わされて。なんか一番いろんなもの考える時期だったから。オレずっとふてくされてたのに、 姉貴は平気でにこにこ笑ってるし。それにますます腹が立って、絶対に口もきいてやらないし、仲良くなんかしてやるもんかって思って」 ハルチカは思い出したのか唇をとがらせる。その顔は、見たことのない11のハルチカの顔に重なった。 「二人で遊んできなさいって、海岸に出されたんだけど。子供だけになっても変わらなかった。優しい顔してにこにこして、何考えてるんだろうって。 でもあの人無理してた。今日からお姉さんになるんだからって。オレに背向ける時、一瞬見えちゃったんだ。顔が何か必死で我慢してたの」 「・・・・・・・・その時の写真」 「そ、オレの最初の作品。今までいろんな写真撮ってきたけど、この一枚以上に良く撮れた作品なんてない気がする。 あれから何年もたったけど、あの人ほんとにこーゆう人なんだ。平然としてるように見えて、オレの前じゃ『姉』でいなきゃって思ってて、そのくせ影で我慢したりしてるから、放っとけない」 ハルチカは好きになってはいけないヒトだと言ったけれど。 「本当の兄弟じゃないのに」 「ああ、だめだめ。あの人自分よりずーっと年上の先生が好きなんだから。幸せそうな顔して言うんだぜ。ないしょよ、あんただから教えてあげるのよって。あの人ん中じゃ、オレ11のままなんだ。 そういうのって結構しんどいから、離れようと思ったけど、完全に離れることなんてできねーの。家族って、思ったより甘くないんだ」 ハルチカのお得意のへらっとした顔。彼はずっとそうしてきたんだろう。 「だからこの写真に全部閉じ込めたと思ってる」 ―― 好きになったんだから仕方ないけど。 仕方ないけどどうしようもないことはたくさんあるんだと。 ハルチカは言った。 冬の日は深まっていく。相変わらず、大学の空いている時間は聖堂脇の外階段で過ごした。踊り場の壁に背をぴたりとつけて、膝を抱える。 聞こえてくるのはさっさっと落ち葉を踏みしめる軽い音。 午前中のこの時間に裏道を通るのは、清掃員でも講師でもない。 「・・・・ハル、」 先日ハルチカが置き忘れていった携帯電話を手にして、漆喰から越えた視線は動けなくなった。 結構な距離だった。 気づかなかったといえばそうなのかもしれない。 けれど、加賀は確かに ふり をしたのだ。何も目に入らなかったふりを。 周囲の人間と同じ。 誰からも見えない。 誰にも聞こえない。誰からも気づかれない。誰にも 触れられない。 ―― 倉田という人間の彼女を見つけた加賀には、もう鴨はいらなくなったのだ。 無意識に自分の額の辺りに手を持っていった。冷えた前髪があたる。 安心できる自分の体温。それはなぜだかつめたかった。 左手にあった携帯電話をそのまま目の高さに持ち上げる。四角いフレームの中に空が移り込んだ。 空の何も無いところを撮る。 四角いフレームにはどこまでも澄んだ青一色。 この中に加賀への哀しみが閉じ込められているのだと思った。
ここで終わったら終わったでいかがなもんだろうね。
(05,1,23) |