ハイイロと冬空 ぽかんと見上げた空は灰色。 視界に入るのは、空の灰色と漆喰の白とポプラの黄色。 講義が始まった午後の静かな構内に、どこからともなく賛美歌が聞こえてくる。カトリック系の大学ではこの時期、行事が多い。 聖堂の脇にある、めったに使う人のいない外階段。この踊り場で大体の時間を過ごす。 漆喰の壁に体を預けると、ここからは空とポプラしか見えなくなる。自分を見ているのも、空とポプラだけ。 その灰色の上の上の方を一羽、首のほっそりとした鳥が飛んでいった。渡り鳥だろうか。編隊をつくるでもなく、一羽だけで飛んでいく。 次に生まれ変わるなら渡り鳥がいい。 ひとところを目指して一心に飛ぶ。 そんな生き方をしたいのだ。 そして加賀と出会わずに過ごす。たとえ加賀と出会っても、海の上を休むことなく羽ばたき続けていれば、余計なことなど考える隙間もないだろう。 今生きているのに次の人生を考えるなんて馬鹿だと、加賀なら言うだろうか。 「どうかした?」 空の灰色と、漆喰の白と、ポプラの黄色だけだった視界にふわっと割り込んできたのは、まっすぐな黒い髪だった。 「・・・・・・・・・」 ゆっくりと身を起こして視線を移すと、切りそろえた長い髪の先に色白の顔があって、そこにある二つの真っ黒な瞳とぶつかる。個性的だけど統一感のある服。 ―― 倉田。 何か言葉を発そうと思ったけれど、唇が石のように重くて動かなかった。 黙りこくって見つめていると、倉田はしばらくしていきなりすっと目を細めた。特に大きい訳でもない黒目がちの瞳が狭められて一色になる。 「ごめんなさい、誰か倒れてるのかと思ったの。勝手な勘違いだったみたい」 彼女は静かに笑う。風に揺らされるポプラの梢みたいに。 「あなた知ってるわ。顔見たことある。ヨーロッパ文化と音楽Uとってるでしょう? 私もとってるの。でもこんな時間にここにいるってことは、お互いサボりね。 私音楽も西洋文化も好きなんだけど、どうしても教授の見解と合わないの。あの先生、我を通そうとするっていうか、自分の意見だけが正しいって思ってる節があるでしょ? 一方的な話をノートにとるだけなんてつまらないし。 あなたも?」 倉田がつけている十字架の飾りが薄い太陽の反射を受けて光った。 音が聞こえてきそうだと思った。 だけど何も聞こえてこずに、唇も喉も動かずに、さらさらと風が木を揺らした。 「あ、ハトコじゃんーー。何やってんのーー」 向こうの講堂の端から甲高い声があがる。 「ああ、アユカ? 今行くー」 倉田はよくとおる声で返すと、こちらを向いた。 「私は私で講義に出ないみたいに、あなたにはあなたのここでこうしてる意味があるのね。それじゃ」 倉田は、片手を浮かすと少し目を細めてきびすを返し、聖堂の中に消えていった。 壁にもたれた姿勢のまましばらく動けなかった。 ここでこうしている意味。 彼女は“自分”というものを持っている。自分にはないもの。倉田には、自分がうまく話せないことも、何もかもわかっているようだった。 もし自分が女性を好きなら、きっと彼女を好きになった。 そう、次に生まれ変わるなら ――。 「どぅわ、びっくりした。あんた生きてんの?」 二週間にせいぜい一度か二度、訪れるのは外回りの助教授か清掃員。それもだいたい自分のことなど目に入らないかのように、 脇を避けて通るか、何も見なかったように通る。そんな外階段の踊り場で、珍しく二度も声をかけられるなんて。 首を動かさずに目をやると、日に透けた明るい茶髪と赤いピアスが一番に目に入った。 変わった形の靴に、トランク型の変な鞄。上着の内側には、サーモンピンクと水色の大きな丸が順に並んだヘーゼルのシャツがのぞいている。こんなに変な格好なのに、妙に似合っていた。 「何、昼飯ここで食ってんの? 聖堂脇の外階段っつったら霊が出るって有名なんだぜ。気味悪がって誰も近寄らないのに、あんた根性あるね。最初見た時、あんたが幽霊かと思った」 何回生だろうか。よく口が動く。ぱちりとまばたきをする大きな目はどこか幼く見えた。 「・・・・・・・・・その幽霊が出る階段に何の用」 「オレ? オレはこれ。あのポプラの広がり具合いいなぁと思って。上の角度から撮ってみようと思ったんだ」 これと言った彼は手に高そうなカメラを携えている。 「・・・・・・幽霊が出るのに?」 「見えないものはわからないから別にどうでもいい。見えたらびっくりするけど」 さらっと流した彼に、意外にも少し似たものを感じた。 彼が自分でよく喋ることには、デザイン科で写真サークルに所属しているハルチカというのだという。苗字か名前かはわからない。 デザイン科の学生とわかればその独創的なセンスにも納得がいく。この大学でも異彩を放っているその学科は、学内でもはずれに位置しているのでほとんど見ない。 ハルチカは全くのマイペースで、おかまいなしに階段の手すりに腕をかけ、おもむろにカメラをとり始める。ポプラの木など上から見ても、下から見ても同じじゃないかと思う。 ひとしきりとり終えて気が済んだのか、ふっとこちらを見た。 「あの木の下あたりに誰か人がほしいんだけど。あんたあそこに立ってみてくれない?」 「・・・・・・嫌」 「じゃいいや。何かそう言われるような気がした」 外見と違ってずっとあっさりしている。 「オレ風景専門なんだけど、そこにヒト入れて撮るのが好きなんだ。物は少しの間同じかもしれないけど、ヒトの顔って一瞬だってとどまってないだろ。その瞬間瞬間がもう二度と見れないんだって思ったら、 それをとっておきたいって思うんだよね。貧乏性なのかな。あんたあそこに立ってみてくれない?」 「・・・・・・嫌」 「言うと思った」 ハルチカはクイズが当たった子供みたいに笑った。それを見ていたら思わず頬が緩む。ハルチカにだったら自然と口が動くことに気づく。 「オレの撮った作品見る?」 ハルチカはトランク型のバックをごそごそと開ける。カラフルな道具の数々が転がり出た。透明な赤いバインダーを渡される。 紅葉した木々の中に佇む女性、ビル群の間にまぎれる少年・・・・・・、自然と人工物がごちゃまぜになって、その合間合間に人間がいる。 肝心の人の顔が遠すぎて見えないというと、それが欠点なんだとハルチカは言った。 何だかむちゃくちゃだ。作品もハルチカも。 むちゃくちゃで混乱していて、逆に気が楽だった。 ファイルをめくっていくと、一番最後にきれいにしまわれている一枚にいきあたった。 それまでへらへらと呑気に見ていたハルチカの空気が変わったのがわかる。 写っているのは海岸で波に向かって立っている12〜13歳の少女の後ろ姿。 冬の海だろう。空は重く灰色で、波も荒く白い。少女は裸足で、長い黒髪が強い風に舞って散り散りに乱されている。なぜか彼女が飛び立ちそうな印象を受けた。 全体的に暗いのに、力強さを感じさせる不思議な写真だった。 「キレイ」 思わずつぶやくと、ハルチカは意外そうな顔をした。 「そんなこと言ったのあんたで二人めだ。みんなこれ見せたら、陰気だの、クラいだの重苦しいだの好き勝手言うんだよね。 いつだってオレのゲージュツは理解されないのさ」 そう言ったハルチカはもうへらへらに戻っていた。 「あんたわかる人みたいだから特別に教えてやるよ」 ハルチカはないしょと顔を近づける。 「これ、オレのすっげー好きなヒト。・・・・・・でも好きになったらダメなヒトだった」 ハルチカはへらっとする。 空の灰色とピアスの赤が目に痛かった。 ハルチカを越えて見える遠い遠い場所。違う棟の廊下に加賀がいた。倉田や女友達と笑っている。加賀は自分の前ではいつも怒っていて、あんな穏やかな顔、絶対に見せない。 ―― もし、この世に好きになってはいけない人間がいるのなら、自分にとって加賀がそうだったのだ。 へらっとしたハルチカの目は哀しげだった。鴨に似ていると言った加賀の言葉が初めて理解できた気がした。きっと自分も同じ目をしている。 ハルチカだと気が許せた理由が何となくわかる。ハルチカは同じ生き物だった。 ハルチカといると限りなく穏やかな気持ちになれる。これから先、加賀を近くで見た時に感じるような、どうしようもなく胸が騒ぐことはもうないのだろうとわかった。
四人になった二人・・・(ノープラン)
カモの雄は派手なのです。 倉田鳩子ちゃん。鳩子はいつか使いたかった名前。 今ここで使わんでもって感じだ(−−)。鴨に鳩にもう何がなんだか (04,12,23) |