1/2 の記号 名前は記号。それ以上でもそれ以下でもない。 それなのに、加賀の部屋に置きっぱなしになったケータイの着信表示を見かけるたび、いちいちざわつく理由を見つけられないでいた。 ディスプレイに “鳩子” の二文字。 こんな時間にも用があるんだ。 電話している。登録したのは加賀で、普段からそう呼んでいるのだからしごく当然の事で。それ以上でもそれ以下でもない。 いつもの事がふいにどうでもよくなることがある。 ふらりと立ちあがって見上げる窓、月のない曇りの夜は暗くて、加賀の部屋から外がよく見えない。 帰る。 それから後、外の音もよく耳に入らなくて、何か言われていたけど返事をしないで。上着を羽織ると、暗い中でも見失わないように、帰り道の順路だけを反芻していた。 「カモ、」 呼ばれる。肩を掴まれる。ああこんな目を知っている。唐突に思い出した。 ―― もう、いいわ。 いつだっただろう。女の先生は困ったような、思いつめたような声をして言った。 小学校の頃の作文。テーマは《 ぼくの、わたしの、宝物 》。いくら考えても思いあたらなかったので 白紙で出した。 放課後、一人だけ先生に呼び出されて。 どうして何も書かなかったの。 ………………………………。 何でもいいの。大好きなものや大事なもの、綺麗だなと思うものでも良いなぁと思うものでいいのよ。簡単でしょう。それを教えてほしいなと思ったのよ。 ………………………………。 どうしてずっと黙っているの。先生難しいことを言っているかしら。 別に先生を困らせたい訳ではなかった。本当にそんな物など無かったから、わからなかったからだ。適当な嘘をつけるほどの要領も身につけていなかった。 「もう、いいわ」 帰りなさい。女の先生はこちらを向かず、最後にそう言った。今思えば大学を出て数年の若い新米教師だった。あれで自信を失くしてしまったかもしれない。 先生、 あの時 一言 窓の方を向いている先生の名前を呼べていたら何か違っていただろうか。それはもうわからない。 何もかもどうだっていいと思っていたから。 加賀は、あの時の先生とよく似た目をしていた。それからあの言葉を言うのだろう。 それを待たずに肩で手を払って歩き出すと、加賀はそれ以上追いかけてこなかった。加賀にはわからない。 曇った路は暗くて、どうだっていいと。 名前は記号。呼ぶための識別。 「ハルチカ、」 「ごめん加茂サン、遅くなって」 七時を少し過ぎて、黒いカフェエプロンの紐を結びながら謝るハルチカと入れ違いに、カウンターを出た。 裏手で私服に着替え、あとは店を出る前に決まった言葉をかけるだけ。 「………………お疲れ様でした」 はい、お疲れさん、ティーソーサーを磨くのに余念のないマスターの張りのない声を背に、喫茶店の扉を閉めた。 新しいバイトしない? ハルチカに頼まれたのはしばらく前のこと。ハルチカは最近 車の免許をとってローンを組んだらしく、掛け持ちで複数のバイトを渡り歩いていた。急な欠員で困っているのだと言う、自分が紹介したものだから責任を感じているらしい。 大学からだいぶ離れた山手に位置する喫茶店のスタッフだった。 ハルチカの人脈なら他にいくらでもあてがあるはずで、喧騒を思うとわずらわしく一度は断ったが、いつになく神妙なハルチカにおし切られた。 行ってみれば街中からはずれた静かなもので、落ち着いた客層の接客もマニュアル通りで過不足なく。余計な交流もなかったので、今日まで続いている。 店内にはカメラが趣味だというマスターの撮影した山の風景や高山植物の写真などが飾ってあり、そこが気に入ってるんだとハルチカは言う。 週に数時間、シフトはハルチカと入れ替わりの時も、午後から重なる時もあった。 ねえ加茂サン、オレ今日車で来てんだ。今日一緒のあがりだろ? 終わってからホタル見に行こうよ。 この山手のちょっと奥に入った場所でホタルが見れるんだって。 あっちの奥の席に飾ってある写真あんじゃん? 意外と近くで撮れるらしいんだよ。地元の秘蔵の場所だからって、マスターに教えてもらったんだ。 マスターが買い物に出かけて、しばらく前から降りだした雨で一層客のいない店内で、器用にも手を休めることなくハルチカはぺらぺらと喋ってくる。 新車に誰か乗せたくて仕方ないらしい。 要は実験台だ。 「………………雨、降ってるけど」 「さっき裏で見た天気予報、夕方からあがるって言ってたから大丈夫」 カランカラン 入口のベルがなって人の声が聞こえた。客だ。 常連もマスターと同世代くらいの客が多く、大学から遠いこともあってか休日でもほとんど若い客はいなかった。 だから、急に雨足が強くなったり、そのせいで 人のいい顔をした准教授の吉永と、倉田鳩子と加賀がつれだって入ってくるなどとは思ってもみなかったし、考えもつかなかった。 「いらっしゃいませ」 マニュアル通りに口を開く。 「あら、加茂さん?」 倉田が驚いたように見開いた目を優しく細めた。 「ここは初めてですが、うちの学生さんですね」 背広の肩のあたりをハンカチではらいながら吉永が、倉田の方へ頷く。 加賀は何も言わない。 「3名様でいらっしゃいますね。ご案内いたします。こちらへどうぞ」 マニュアルを述べて背を向けた。 加賀は何も言わない。 ただ背を向ける直前、前髪を伝う水滴をはらうこともないまま強い視線をしていたのが見えた気がした。 カウンターの見えるマニュアル通りの席に案内して、「ハルちゃん?」もっと驚いたような倉田の声を聞いた。 「治ちゃんバイトで夜遅いって聞いてたけど、あなたたち同じ所でバイトしてたのね。知らなかったわ」 倉田は唇の端をあげた。少し寂しそうに見えた。 「言ってなかったからね」 一時 動きをとめていたハルチカはすぐにへらっと笑った。 マニュアル通りにコップとおしぼりを置いて、メニューを持って来忘れたことに気付いた。 マニュアルからはずれてしまった。 「失礼いたしました」 下がろうとすると、脇からメニューを持った手が伸びてきた。他に客はおらず手の空いたハルチカが出てきていた。 加賀は黙って、メニューに視線を落としている。 「ここのブレンドコーヒー飲んでいって下さいよ。お勧めなんで」 「じゃあそれをお願いしようかな」 ろくにメニューも見ずに吉永がのんきな口調で言った。 品物を出してバックヤードに下がる頃には、3人は別の話題に移っていた。 「今日は遅くまでつき合わせてしまってすみませんね。資料整理まで手伝ってもらって」 「いいえ、いいんです。いつもお邪魔してるだけだから」 会計にはハルチカが立った。 カランカランと音がしてマスターが戻って来る。 「いや、参ったよ。急に降りだしたと思ったら、戻った途端これだ。ああ、いらっしゃいませ」 荷物をかばって傘をたたみながら入って来たマスターは、吉永達に気付いて頭を下げる。暗くなり始めた外は、先程の分厚い雲が嘘のようにからりと澄んで、晴れ間から星が覗いていた。 「倉田さん達、次のバスは何時ですか?」 「えっと・・・50分後だわ」 「50分? 先のを逃してしまったんですね、悪い事をしました。戻って車を出しましょうか」 「いえ、大丈夫です。吉永先生もお忙しいのに」 「ですが、」 知り合いなの? 綺麗な彼女だね。 カウンターに入って来たマスターが買ってきた品を棚に並べながら言う。 「少し早いけど、倉田くんも加茂くんもあがっていいよ。今日は早めに閉めようと思っているし、マリコくんも直に来るからね」 常連とも気の知れた次のシフトだ。 この古い自由な喫茶店はマスターの気まぐれで閉店時間が変わり、夜はたびたび常連の貸し切り状態となる。 「車、駅まで送ろっか。ちょっと寄り道するけど」 離れたレジまでマスターに目配せをされて、ハルチカは観念したように言った。 助手席から見上げるハルチカの横顔は、まっすぐ前を見据えていて何を思っているのかわからなかった。 ましてや後部座席の加賀の顔など。 「乗せてもらうの初めてね。こんな車買ったんだ…。隆文は免許とってないものね」 「ああ、」 車のエンジン音の中で、加賀のひそめた声はよく聞き取れない。倉田鳩子のよくとおる何気ない「隆文」の声も聞こえなければ良かったのに。 「運転上手くなってから驚かせてやろうと思ったのに」 後ろの鳩子にそう返すハルチカの声は、少し笑いを含んだいつもの調子、のように聞こえた。 「知らなかったわ」 「知らないことたくさんあるよ。離れて住んでるんだから、当然だろ」 「そうね、」 「・・・どこまで行くんだ、」 関心のない加賀の声。 「ちょっと蛍の写真を撮りに。そんなに時間をとらせませんから、車で待っててもらってもかまわないし」 喫茶店よりさらに山際、一歩奥に入ったあたりで急に人口の明かりは少なくなり、夏の虫の声が一際よく聞こえてきた。 「ここら辺であってるはずなんだけどな」 バタンと運転席の扉を閉めてハルチカは言う。夜は幾分涼しくなったとはいえうっすらとした熱気がまとわりつく。外に降り立つと、虫の声に一斉に囲まれた。黒い林の方からホウホウと何かの鳥が鳴いている。 水の匂いがする。 「あっち行ってみよ、加茂サン」 呼ばれるままに、ハルチカが暗い小川らしきほとりのあぜ道をずんずん進んでいくのを追った。後ろで車を降りる二人から少しでも早く離れるみたいに。 「バレちゃったね、バイト」 がさがさと草を踏み分けながらハルチカの黒い影が言う。 別に隠してた訳じゃない。……………特に話してもなかったけれど。 人の歩く気配で周りの鳴き声は一瞬しんとやむが、やがてまた鳴き始める。 「シッ、ストップ」 虫やカエルの声が響く中、どこかふざけた調子で、ハルチカが人差し指を唇にあててきた。何も喋ってない。 触るなと無言でその手を払うと、「怒った」とハルチカはおかしそうに笑った。 横でサラサラと水音を立てる向こうの草が生い茂っている暗いあたりに、三つ、四つ、白にも黄色にも見える丸い光が漂っているのが見えた。 足をとめて息を殺していると、三つ四つだった光は次第に増え、今までどこにいたのかと思うほどの小さな光がゆっくりととびかった。 暗闇で微かについたり消えたりしながら移動する光は、ぼんやりと呼吸をしているようで。 不規則に一途に、何かの合図を送っているようでもあった。 「………………………きれい、」 口に出すと、何がおかしいのかまた黒い影が小さく笑う。 「………………………何、」 「いや、ごめん、あんたでも珍しくそんな風に思うんだなと思って」 言いたいことだけ言って、ちょっとあっちで撮って来ると、ハルチカは本来の目的を果たしにさらに奥へと行ってしまった。 一人になって、夜露の残る草の陰に沈むようにしゃがみこんだ。対岸をゆらゆらと漂う光を目だけで追いかけていると、自分だけが暗闇に道を見失ったようで、どちらから来たのだかわからなくなる。 このまま動かずに、ずっと元からそうであったように、この場所の一部として根を下ろせたら。 「隆文 見て、光ってる、すごく綺麗ね」 「ほんとうだ」 遅れてきた二人分の足跡に、非現実は破られて、その場にじっと気配を消した。 「吉永先生のお宅の近くにこんなに灯りのない場所がまだあるのね。不思議だわ。 ねえ、先生がまたさくらに会いに来て下さいねって」 知らない話をしている。二人にしか知らない話。 「隆文が行くと、先生の側にも普段より寄って来るような気がするんですって。わたしにはそう変わりはないように思えるんだけど」 「なんだ、いい加減だな」 加賀は低く笑った。 普段からどれだけ懐かれてないんだ。 加賀の声に鳩子も笑う。加賀の笑う声なんて、もういつから聞いていないだろう。急にあたりが蒸し暑く感じられた。煩いくらいの虫の声。 「……治親たち、どこまで行ったのかしら。あまり奥の方に行かないといいけど」 加賀はそれには何も応えなかった。じっとりとした暑さが息苦しい。 「治親、わたしに会いたくなさそうだったわ。そうよね、近くにいようが遠くにいようが、何でも話さなきゃいけないって訳じゃないし」 「鳩子……」 「わたし、もうちょっと先の方歩いてくる。なんだったら車に戻ってて」 倉田は明るく言うと、一人分の足音だけが暗がりに消えて行った。 車に戻っててと言われたのに、加賀らしき長身の黒影はそこから動こうとしなかった。 蛍を見ているのだろうか。ここで鳩子を待つのだろうか。 ふいに加賀の傍に行きたいと強く思った。 蛍を綺麗だと思うのも、季節に音が聞こえることも、外で吹きあげる風が悪い気分じゃないことも、あの作文が今は書けることも、加賀が気付かせてくれたことだったから。 加賀を怒らせないで困らせないで、名前を呼んで隣に立って蛍を綺麗だと言って他愛のない話をするのが倉田じゃなくて自分だったら、どんなにいいだろう。 目元にじっと熱がたまるのは蒸し暑い温度のせいなのか、苦しいせいなのか、混じり合ってわからなくなった。 「………暑いの苦手なんだろう」 加賀が急に声を発する。誰も居ない川のほとりで。 急に人の声がしたものだから虫たちの声がまた途絶えた。 「居るんだろ」 話しかけている。 「一人で何やってんだ」 困ったような声。 「カモ、」 呼ばれて、さすがにその場を立ち上がった。 「……………………どうしてわかったの、」 名前は記号。人を動かすサイン。 「わかるよ。」 どれだけ一緒に居ると思ってるんだ。 また、見つけられた。 「何か冷たいもんでも飲むか、」 加賀について戻った、車を停車した側。付近の自動販売機の前で、加賀がポケットから出した小銭を雑に入れる。 「何がいい」 「……………………水、」 うっすらとした自動販売機の人口の光に照らされた加賀は何か言いたげな目をしていたけれど、水とブラックコーヒーのボタンを押した。ガコガコンというやけに煩い音が響く。 ほら。 自分の缶に口を付けながら、片手で投げてよこす。 変わる事のない名前はただの記号。 それ以上でもそれ以下でもない。けれど、それに特別な意味を見出そうとするのは、多分、どうでもよくないからだ。 言わなければいけない言葉はたくさんあった。けど、 「タカフミ、」 口にしたら、加賀は盛大にむせた。
気配を察知するようになった男。
季節ネタを入れると時系列が;。 時はそんなに経ってないのに季節だけが流れて行く謎の空間。 だらだら長く、蛍の名前の由来とか調べたのにからませそこねるっていう (12,7,17) |