鳴かない鳥




 セミが鳴いている。
 いかにも日本家屋といった佇まいに、苔むした岩と緑の木々が配置された庭。左の方のどこからか、セミが一匹だけ鳴いている。
 チリン…と、軒先につるされた青銅の風鈴が揺れた。
 強い日差しの庭に面しているのに、腰かけた縁側は不思議と涼しく、その足元でキジトラの子猫が寝転がって動いていた。
「おいで」
 膝に抱きあげると寝転がったまま、襟からのびたリボン紐の片方にじゃれついてくる。

「来客用の茶托が見当たらなくて困りました」
 お客さんなんてめったにありませんから。
 奥から出てきた吉永先生はそう苦笑して、おぼつかない動作でおぼんに乗せた器を隣に置いてくれた。涼しげな薄緑色のガラスの器には、冷たい麦茶に氷が浮かんでいる。
「様子を見たらすぐ帰るつもりでしたので、お構いなく」
 幸せそう、良かったわ。
 子猫のキジトラ模様の背中を撫でながら笑顔を作って会釈すると、先生はつられたように軽く頭を下げた。
 どうしても引き取り手の見つからなかったノラの子猫を、一軒家に一人暮らしという条件だけでこの人の良い准教授に半ばおしつけたのは自分だ。
「祖父の持ち家なんですよ。まだ勝手がわからなくてね。僕も猫も自由にやっています」
「なんてつけたんですか?」
「え、」
「名前」

 さくら、と先生ははにかんだように答えた。
「花の名前を付けられたんですね。素敵だわ」
「いいえ」
「え?」
「サクラシメジから。キノコの名前ですよ。ほら、ここの色が似てるなと思って」
 そう言いながら先生は手を伸ばして、わたしの膝の上に乗っている子猫の足の裏を持ち上げて見せた。
「あ、そ…うなんですか」
 イタタ…、当然嫌がる子猫に爪をたてられ、先生は慌てて手をのける。
 どちらかというとおとなしく、楽に単位の数を増やしたいだけの女子大生達を相手に、いつも埋もれるようにぽそぽそと生物学の講義をしている。ほとんどの人が聞いていない状況で、声を荒げることもなく、専門分野のキノコの話になるといくらか優しい口調になる。キノコをまるで小動物か何かのように語る。ちょっとズレたとこのある。
 そんな吉永先生が、わたしは好きだった。

「先生、」
「なんですか?」
「おうち、片付けてくれる人とかいないんですか? 女の人」
「ええ?」
 わざと試すように投げかけると、先生は目を白黒させて、それから気弱に笑った。
「いませんよ。こんな冴えない生物教師のとこに来ようなんてもの好きな人は」
「そうかしら。好きですよ、わたし」
「あの・・・君はその・・・。勉強熱心ですし、常に前の席で僕の話を聞いてくれてますが・・・その」
「純粋に先生としてですけど」
 そう言って微笑んだら、吉永先生はわかりやすく安堵の表情を浮かべた。
「焦ってしまいました」
 好きだなんて言われたら困るという顔をしていた。

 もうほとんど覚えてないけれど、どこか面影が似ている。昔、家を出て行った人に。

「わたしこれで失礼します」
「送りましょうか」
「大丈夫です。電車まで時間まだまだだから。じゃあね、さくら。さようなら、吉永先生」
「さようなら、倉田さん」
 好き、なんて簡単に言える言葉だけど。


 幼い頃、あれほど行かないでほしいと全身で願った父親は出て行ってしまった。
 一番望んだことは叶わない。昔からそういうことになっている。
 叶わないことは、願わないことにしたの。




「次の時間、どうするの?」
「資料コピーしに図書館」
「あ、隆文、来週発表だっけ」
 講義が終わってかたい石造りの渡り廊下を並んで歩きながら、加賀隆文の返事はそっけない。無愛想でそっけないのはいつものこと。
「鳩子は、」
「どうしようかな」
 つき合っているなんて周りから言われたこともあった。つき合って、たのかな? 立ち止まってじっと見る。
「何、」
 つられて立ち止まった隆文は怪訝そうに眉をひそめた。
 きっと隆文とならお互い助け合ってずっとつき合っていけるだろう。隆文はご免だろうけれど。
 少しおかしくなった。
 ほら、好きだなんて簡単に言うことができる。


「あ、ハルちゃん」
 横に向けた視線の先に、キャンパス内を一人で歩く治親の姿を見つけて、手を振った。
 振り向いてへらっと笑うその顔。毎日一緒だったあの家を、高校卒業と同時に出て行って、同じ大学内で出会うこともめっきり少なくなった。
 たまに会えば、大概知り合いだという同じようなタイプの女の子を連れている。一番最近見たのは、茶色いウェーブのかかった短い髪にふわっとした丸顔の子だっけ。ああいうかわいらしい系が好きなのかしら?
「あれー、加賀サンは? さっき一緒にいなかった?」
「先行くって」
「冷ってーの」
 二週間も見かけなかった事なんて関係なくいつものように笑うから、いつものように笑ってみせる。
「次、どこ?」
「一回帰ろうかと思って。ハルちゃんは?」
「オレ、これから市内の美術館。現地集合、見学してレポート提出でOKだってさ。……てか、これどうしたの」
 ふいに手をとられた。
 自分から離れていくくせに、突然 入り込んでくる治親の距離感が測りきれなくて戸惑う。
 手には細かい引っかき傷がいくつかついていたけど、大方 治りかけていた。
「前話したでしょ。吉永先生にもらって頂いた子猫。子猫だから加減を知らないのね。遊んでたらこうなっちゃって」
「ふうん。ちっちゃくてもあんな凶暴なモンとよく遊ぼうって気になるね」
「凶暴なモンって」
 唇の端をあげて、笑う。
「ハルちゃん……、手」
「……ああ」
 ぱっと放した。

 ふと得も言われぬ視線を感じて、顔をそちらへ向ける。
 深い夜みたいに真っ黒で無感情に大きな瞳。小柄で色が白くて人形のように均等な顔だちをした。
 少し先の木立の下に、加茂さんが立っていた。
 微笑み返すと、すっと顔を違う方へ向けた。嫌われているみたい。
 わたしは好きだけど。
「あ、加茂サン待たしてたんだ」
 気付いた治親が、一度 鞄を肩にかけ直した。
「一緒に行くの?」
「そ、あの人、一人じゃ無事にたどり着く気がしなくって」
「そうなの。気をつけてね」
「じゃ」
 行ってらっしゃい、笑顔で手を振った。
 連れている女友達とは違う。単純な好奇心とも違う。治親にとって加茂さんは特別。わたしにはわかるの。
 家を出て行ったのは居づらかったから?
 さっき、振り向いてへらっと笑う前に、一瞬ひるんだ顔をしたこと、知ってる。
 家を出て行く日に、わたしの顔を一度も見なかったこと、知ってる。
 治親には幸せになってほしい。
 わたしが後から入り込んだりしなかった家。本来あるべきだった、我慢しなくてよかった家をつくってほしい。


 ハトコの結婚式の写真は、オレが撮ってやるよ。
 いつだったか、冗談とも本気ともつかない口調で治親が言ったのを思い出していた。
 じゃあ、ハルちゃんの結婚式の写真はわたしね。
 その腕前で!?
 ひどい。



 そんなこともあったよね。
 あら。
 駅までの道、ぽつりと頬に水滴があたる。
 さっきまでよく晴れていたのが嘘のように、空は厚い雲に覆われていた。朝の天気予報は雨だったっけ? よく覚えていない。
 仕方ないから雨にあたって走ろうと一歩力を入れた時だった。アーケードの向こうから走って戻って来る治親の姿を見つけて止まる。
「どうしたの?」
「どうせ今日も天気予報見てないと思った。はい、これ」
 鞄から出した折り畳み傘を渡される。
「え、だってハルちゃんの」
「オレは加茂サンと相合傘。絶対、嫌がるだろうけど」
 おかしそうに笑う。

 どうして今戻って来るの。どうして思いだしたりなんかするの。ちゃんと笑って見送ったのに。
「治親…………」
「何?」
「ありがとう」

 目を細めて唇の端をあげて、言った。治親がまた走って行くのを見届けるまで。
 だって
 声が震えたりしたら 困るでしょう?
 行かないでって言ったら 困るでしょう?
 治親だけには言わない言葉がある。

 叶わないことは、願わないことにしたの。










さらっといきたい。
ばっさり切りたい。
(11,8,16) 







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