猫と騒音 カモが来ている。 午後二時。部屋を移動する際、薄暗い廊下の片隅にかたくなに座っているのを視線の端でとらえた。壁と壁の間にまぎれて見えないつもりでいるようなので、こちらもそのようにふるまう。 午後六時、外出しようと玄関先で靴を履く頃には、もうカモの姿はなかった。 居る日も居ない日もある。関わる日も関わらない日もある。13:00 から 14:00 の間に現れて、17:00 を過ぎた頃には消えている。それがカモのタイムスケジュールだ。 事の発端は9月初頭、まだまだ残暑厳しい昼下がりのことだった。 カモのアパートに行く途中の路地が、道路工事で半分以上ふさがれていた。ガガガガというかなりの音量だ。「ご迷惑をおかけしております」、交通整理をしていた同い年くらいの顔がにこやかに頭を下げた。知らない顔だが、ここら辺だと同じ大学のアルバイト生かもしれない。ご苦労さま、という気持ちで脇を避けて通った。 ガガガガをバックに、カンカンとやかましく鉄製の階段を上ると、毎度 鍵のかかっていない部屋がある。 扉を開けると、むっとするような熱気の中、畳んだ布団の上に突っ伏しているカモがいて、瞬間 思考がとまった。カモの部屋には冷房器具がないのにも関わらず、何を考えているのか窓をすべて閉めきっている。 大丈夫なのかと抱き起そうとしたら、うっすらと開けた黒い半目でわずらわしそうにこちらを見て、自分で身を起こした。 「………」 何か口を動かすが、外から漏れる工事音でよく聞こえなかったので耳を近付ける。 「煩い」 「え?」 うるさい、とカモは再度 言った。 一瞬 自分のことを言っているのかと思ったが、窓を見ている。そういえば、カモは賑やかな場所や大きな音も大嫌いだ。どうやら外の工事音が入るのをきらって窓を閉め切っているらしい。かといって決して暑さが得意とはいえない。カモはかなり参っているようだった。立ち看板の工事期間は9月30日までとあった。 しばらく考えて、気付いたら自分のアパートの予備の鍵を渡していた。何のプランもなく、他に頼る所……倉田治親のところなど行かれてはたまらない。 こうして大学が夏休みの間、騒音から逃げ場のないカモに、立ち寄り所を提供することとなった。 今日もカモが来ている。 まだ試験的なデザイン物件ということでわりと手ごろな価格で契約したこの部屋だが、そう広くもないのにやたら細々と区切られた内装になっている。カモはその区切られた中を移動する狭い廊下の片隅がお気に召したらしく、そこを定位置にしている。 外の領域であるこの部屋におとなしく収まっているカモに妙な満足感を得ている自分に困っていると、インターフォンが鳴った。 「はい、」 ガチャリとドアを開けると、やけに荷物の多い倉田鳩子の姿があった。 「ちょっと頼み事があって来たんだけど、入ってもいい?」 髪をさらりと揺らして笑う。ごくたまに訪れる彼女だが、なぜこのタイミングで。カモの姿など見られたらまた何を言われるかわかったもんじゃない。 「……いや、中はちょっと。実家から届いた荷物が片付いてないんだ」 「えぇ、そうなの。珍しいのね、いつもわりと片付いてるのに」 鳩子は黒目がちの目を一度またたかせた。 「ここで聞くけど、何」 「お願い、猫あずかってほしいの」 「は?」 三日間だけでいいから、と鳩子は両手を合わせた。 「バイト先の裏にいた子猫で他はもらい手がついたんだけど、最後の1匹がなかなか決まらなくてね。 無理言って吉永先生に引き取ってもらえることになったんだけど、今日から三日間 研修旅行で家空けるって言われるのよ。だからその間だけ預かってほしいの」 「と言われてもな……。実家は?」 「うちはおとうさんが猫アレルギーでいけなくて。アユカたちの家も難しいみたいなのよ」 「治親に頼めばいいじゃないか。あいつも確か一人暮らしだろ?」 「……ハルちゃんね、猫、ダメなの。写真は大丈夫みたいなんだけど、本物となると怖いのよ」 鳩子は少しだけおかしそうに笑った。 ネコっ毛みたいな茶色の頭をして、怖いって。子供じゃないんだから。 呆れている間に、鳩子はいつの間にケースから出したのか、キジトラの小さな猫を腕に乗せてきた。 「ね? 三日だけ。必要なものはそろえたから」 子猫は大きすぎるガラス玉のような据わった瞳でこっちを見上げて、背後の廊下にいる誰かを思い起こさせた。途端、子猫は前足を動かして暴れると、小さな口をいっぱいに開けた。 「おい、嫌がられてるんだが、」 「元気なだけよ。もう他に頼れる人がいないの」 思えば、生き物は好きだが生き物から好かれたことなどなかった。小学生のころ、撫でてやろうと思った隣の飼い犬には噛まれたし、いきもの係りだった時は兎にひっかかれた。ふれあい動物園では何も寄ってこなかったし、鴨には逃げられた。 加賀くんはほら、大きいから小さな動物はびっくりしちゃうのかもね、もっと優しく接してあげてね、と先生には言われたが、これでもやさしくしているつもりだった。生き物には伝わらなかったが。 猫を預かるのには向いてないんじゃないかと思ったが、腕に乗せられてしまうともう断れない。 鳩子はそこまでわかってやっている。しぶしぶ承諾した。 「ありがとう。隆文のそういうとこ、好きよ」 鳩子はふっと笑顔をつくった。そういうもの言いをするから勘違いする男が出てくるんだと思う。 彼女を帰して、声にならない声をあげている子猫をかかえて、扉を閉める。 真正面に目を見開いたカモがいたので驚いた。 一点を見つめていると思ったら、さっと素早く違う部屋に消えた。なんで逃げるんだと追いつめると、見開いた視線の先は猫にある。どうも猫が嫌らしい。こんなところも治親と一緒なのかとか、さっきの鳩子を気にしている訳じゃなかったのかとか、腕の中で相変わらずもがく子猫だとか、全部まとめてため息をついた。 キジトラの子猫はまったくなつかなかった。抱くとぐにゃりとしていて、目をそむける。カモと一緒だ。 猫が来たことでカモはもう来ないかと思ったら、来ている。 猫と騒音と暑さを天秤にかけて、猫を耐えることにしたようだ。 キジは嫌なことがあったら口を開けて抵抗するが、カモは嫌なことも黙って耐えていたりするのだから たちが悪い。 ケージに入れている間は、廊下でじっとしているが、キジはよく脱走する。また生憎な事に、キジはカモが気に入ったらしい。気付かないうちに抜け出して、近くに行くものだからカモは弾かれたように動いて逃げ回っている。そんな思いまでして、うちに居る意味があるだろうか。カモから嫌な環境を取り除いてやったつもりが、結局同じ事をしている。 なつかないはなつかないなりに三日もいると情が移るもので。ケージの中で、ふやかしたキャットフードをがつがつと食べるキジを見ていた。 ふと気配を感じて振り返れば、カモが後ろに来ていた。キジの動向の偵察か。 「食べてる姿はかわいいもんだな、」 「………………………」 「返すのやめるか、」 「………………………」 カモは賛同しない。食べ終わったキジはカモの姿を見つけて、ケージの中で飛び跳ねている。カモはそれを見ている。それが、カモとキジの別れの挨拶になった。 四時過ぎ、約束通りキジをひきとりに玄関先に鳩子が来た。カモは廊下の奥に居る。 「元気そうで良かった。本当にありがとう。今度お礼するね」 鳩子が手を伸ばす。キジは、俺の腕を離れる時、口をいっぱいに開けて初めて「ニャー」と声をあげた。まったくなつかなかったし嫌われていたが、確かに「ニャー」と鳴いた。 階段をおりかけていた鳩子に声をかける。 「歩いて帰るのか?」 「ううん、車。吉永先生が車出して下さったから」 へえ、仲、良いんだなと思う。 車といえば…… 「ここ入る途中の通り、工事中だったろ? 迂回できたのか?」 この一帯に入る前の通り道、つまりカモのアパートの前の道路は通行止めになっていたはずだ。大学生の居住区となっているこの辺りは車のすれ違えない細い路地で入り組んでいる。 「通れたから大丈夫よ。この時間もう工事終わってるもの」 「え? 9月いっぱいまでだろ?」 「何かね、違う工事との兼ね合いで午前中だけになったみたいよ。知らないの?」 聞くところによるともう一週間も前から変更されているのだという。それならばなぜ。 階段の下で手を振る鳩子に、軽く手をあげた。 扉を閉めると、薄暗い廊下で立っているカモと瞳が合った。ああ、帰る時間かと思う。 音もさせず移動してスニーカーに履き替えたカモは、すっとすれ違う。 「また来い」 声をかけたら、加茂は立ち止まった。 「…………………また来る」 直に9月も終わる。 午後の騒音も暑さも、すでにあの部屋から無くなっていたのだ。 猫の反対側の天秤にかけるものはもう存在していなかった。無意味になった立ち寄り所に残るのは大嫌いな生き物だけだったというのに。それでもわざわざやって来るのは、猫以上の、何か来るべきだけの意味があったのだと、思いたい。
長い。ブランクが長い。説明が長い。
最後の一文を導き出すためだけに設定が長い。 いきあたりばったりにつき、 どこかで普通に猫平気だったら、無視して下さい。 (10,10,17) |