薄氷





 大学の狭い庭園で、旧棟の壁にもたれて、氷が溶けるのを見ている。
 花壇に花はなく、風は冷たい。
 誰かが置き忘れたプラスチックの水入れに、うっすらと氷がはっていた。
「外は寒いでしょう」
 上から声が降りてきたので見上げたら、倉田が立って微笑んでいた。この頃、倉田がときどき通り掛かる。それまでちょくちょく来ていたハルチカを最近見ない。


「ねえ、“空気みたいな人”とかって言うでしょう」
「…………………………」
 倉田はたいてい二言、三言話しかけて去って行く。その前の講義で聞いたこととか、雑誌で見た話題だとか。彼女の思考はときに、ナイフのように真っ直ぐでためらいがない。
「ずっとそこに在るのに、居るか居ないのかわからなくなる。気付かないほどに些細なの」
「…………………………」
「でも、それって。その人が居なくなったら、息ができなくて死んじゃうんだわ」
 倉田は綺麗にまつげのそろった目を細めて言った。誰かを思い描いているのだろうと思った。


 次の講義があるから、と彼女は背を向ける。
「どうして嘘つくの」
 声を発したら、倉田の足が止まった。
 彼女の抱えているテキストの講義に出るのに、こんな旧棟の裏など通らない。
 ハルチカを、探しているんでしょ。
 わざわざ通り掛かって。装って。もしかしたらいるかもしれない人を。


「どうしてって。あなたにはわかるだろうって、思ったのに」
 ―――怖いから。
 いつもうっすらとした笑みを浮かべている彼女の口許は静かだった。
 そうして加賀を選んでいるのなら可哀相だと思った。加賀が可哀相だと思った。ハルチカが可哀相だと思った。倉田が可哀相だと思った。
 彼女の表情にはいつもうっすらと薄氷がはっている。


 倉田が立ち去った後、またプラスチックの水入れの中に視線を戻した。まだ冬は長いはずなのにそれは、指でつつくと、いともあっけなく崩れた。
 まだ冬は長いはずなのに。





…………………………………
薄氷〔うすひ〕と読むんだと思い込んでたら〔うすごおり〕が正しいらしい。
けど、個人的に〔うすひ〕がいいので〔うすひ〕で。

(09,2,15) 









                                         夜明け前






 カモが最近になって、新しく携帯電話を持った。
 青みがかった白の下地に、無色透明のコーティングがしてある、つかみどころのない色をした機器は、全く興味を失われたように下に落ちていた。
 一度壊してから散々言っても買わなかった物を、どうしたのかと尋ねると限りなく長い沈黙の後、ハルチカに勧められたのだと口をわった。ああそうかと呟いて、虚無感を覚えた。空っぽなそれはどこまでも深く沈んで、いつもそこに在る。
 畳の上に無造作に投げ出された携帯電話を拾って、自分のナンバーを入れた。“001に登録しました”という表示に、つまらない優越感を得て、虚しくなってすぐ手放した。
 帰るわ、と部屋を出て、それから今日まで顔を見ていない。


 明け方、揺すぶられたような気がして目が覚めた。時計を見ようと思ったが辺りはまだ薄暗い。TVをつけると、軽い地震のようだった。結構揺れたような気がしたものの、この地域の震度は1だった。
 すぐに寝付けそうもなくて、カーテンを少しあける。徐々に白んでくる空は、夜と朝の中間だった。うっすらと消えそうな白い月と、二、三個残った星。淡い青みがかった下地に、無色透明の…。加茂を思った。
 もう一度寝ようと顔を埋めると、ヴヴ…と机の上の携帯電話が振動してとまった。
 こんな時間に…と開くと、タイトルなし。
 名前の欄には無機質な英単語が並んでいる。そういえば名前さえ登録し直さなかったなとぼんやりした頭で思った。
 しばらくしてまた目を開く。
 加茂だ。
 本文を開くと何も無いただの空メール。
 薄暗い部屋の中で、目に痛い真っ白な液晶画面だけを見ていた。
 ああ。
 大丈夫だとか、生きてるとか、一人にしようなんて思ってないとか、……怒ってる訳じゃないとか。
 いろいろ巡って、結局ただの空メールを返した。
 頭をつけたまま、窓の方を見上げる、今どれだけの人が目覚めているのだろう。カモもこの無色透明に伸びる夜明けを見ているだろうか。薄暗くてもつながっている。それが目に見えなくても、今この電波の先につながってる。
 明日、カモの部屋へ行こうかと自分に問いかけて、答えが出る前に眠りにおちていった。





…………………………………
空メールを題材で書きたかったのに。断片的

(09,6,30) 






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