アクリルの壁



 
 子供の頃、水族館で広がる圧倒的な空間を前に言葉が出なかった。
 すぐそこに泳ぐ影に何度も手を伸ばしたけれど、ほんとうの魚に触れることはできなかった。
 そう、それは、絶対に。


 カモには興味だとか関心だとか、執着心というものが欠けている。
 最近見かけなくなった携帯電話について問うと、水につかってとまったから捨てたのだという。 ショップに持っていって直してもらうとか、新しく買うとかいう発想はまったくないらしく、それ以来持たないままだ。
 カモは人の多い場所も騒々しいことも嫌いだ。
 どこかへ出かけるという言葉に応じたことがない。
 何もない部屋の隅でじっとして、用がある時だけ動く。
 どうでもいいしどれもいらない。どこも見ていない。
 ・・・そんなカモが、部屋を訪ねると珍しく一冊の薄い本を開いていた。
 近付いてみても無反応だ。
 横から覗いてみると、写真集のようだった。建物や道、どこにでもあるような場所を撮り方によって幻惑的にみせている、不思議な作品群だ。
 カモは飽きることなく時間をかけてじっと見ている。
 何か心惹かれるところでもあるのだろうか。
 表紙の撮影者の名に見覚えがあった。
「この人の作品展、今駅前のビルでやってるな」
 カモは変わらずページを見つめている。
「…………今度見に行くか」
 何気なく口をついた言葉に、カモは初めて反応して、うなずいた。
 カモの変化に、複雑に感情がざわつく。
 講義のない土曜の二時に部屋に行くという約束をとりつけて、帰り際、ずっとひっかかっていたことを尋ねた。
「…………それ、誰に借りた?」
 カモの部屋に今まであんな本があったことはなかった。
 カモは無反応だったが、それだけは待った。
「………………………………ハルチカ」
「ふーん」
 なかば予想していた名前に、気に入らないと声で訴えた。何か言うかと思ったが、カモが口を開くことはなかった。こちらを見ることもなかった。
 こんな時のカモとの間には透明で分厚い壁があるようだ。すぐ隣にいても前に見えていても、少しもわかりあえないことがもどかしい。


 土曜、目が覚めてまず違和感を覚えたのは喉だった。起き上がろうとすると、全身が重い。熱があるようだ。どうやら、近頃ゼミで流行っているたちの悪い風邪をもらってきたらしい。
 寝ていれば昼には治るだろうという考えは甘かった。
 とてもカモの部屋まで行けそうにない。だが、それを伝える手段がないことに気づいた。カモは電話がないし、カモを知っている知り合いもいない。 カモはここの住所を知らない。この辺りだということとアパート名は教えたことはあったが、聞いていたのかどうかもわからない。まあ特に気にしないだろうし部屋にいるのだから カモの方に支障はないだろうとあきらめた。
 それから、脇の携帯電話に手を伸ばしてアドレスを押した。
「薬も買いにいけないなんて相当まいってるのね」
 鳩子は、買ってきてくれた物をドラッグストアの紙袋から取り出しながら、少しあきれたようにいった。
「あっちでもこんな風邪ひいたことなかったでしょ?」
 市販の冷却シートの説明を見ながら、もの珍しげに続ける。
 鳩子は、一番気安い女友達だ。知りあったのは発表で同じグループになった時だったが、見かけによらず芯が強く、自分なりの信念があるらしい彼女とは気が合い、それから付き合いが続いている。
「病院いく?」
「…………そこまででもない」
 かすれた喉で応えると、鳩子は肩をすくめた。つややかな黒髪が流れる。
「ほんとは結構しんどいくせに。じゃあ寝てたら」
 鳩子が台所の方へ行ったのを見送ると、薬が効いてすぐ眠りに落ちた。
 気にしないはずだったのに、なぜかカモのことだけが頭をよぎっていった。
 少し楽になったのでよく眠った気がしたが、実際はわずかな時間しか経っていなかったようだ。
 ふっと目を開けると、カモの大きな真っ黒の瞳が上にあった。
「っ……」
 熱のせいでみた幻覚かと思ったが、確かにさかさまのカモの顔が覗き込んでいる。枕元にカモがいた。
「…………何やって、」
「あ、起きた?」
 扉の影からひょいと鳩子が顔を出した。
「外に出たら階段の下の方にいたからつれてきたの。ときどき一緒にいるの見たことあったから。友達なんでしょ? いけなかった?」
 じゃ私は帰るけど、と鳩子は黒目がちの瞳を意味ありげに細めて、さっさと出て行った。
 おっとりしているのに変なところで勘がはたらく。
 微熱のとれない頭と、枕元のカモをかかえて途方にくれる。
 カモは相変わらず無表情だった。ただ目を開けて見ている。
「…………アパート、よく覚えてたな」
「…………………………」
「…………風邪が移るから帰れ」
「…………………………移らない」
「…………作品展、行って来いよ」
「…………………………行かない」
 よくわからない断定をされる。何を考えているかわからない、いつも。
 興味のあることも関心をひくことも、いつも。
 倉田治親にはわかることが、自分にはわからない。
 治親が手を差し伸べたら自然と伸ばすかもしれないその手を、自分は無理やり伸ばさせることしかできない。
「帰れ」
 腕で顔を覆った。
「…………………………加賀と行く」
 カモの声が聞こえた。たまらない気持ちになった。
 アクリルガラスの向こう、ほんとうの気持ちなどわからない。
 今ここにカモがいる。それだけが真実で。
 背けた額の上を、ひんやりとした指先が何度かさまよった気がしたが、それも熱に浮かされた幻だったのかもしれない。










怖いなー・・・、この子;。

時間軸が行き当たりばったり。
アクリルは水族館の巨大水槽とかに使われてるやつです。
(07,2,18) 







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