壁の花



 
 彼女と初めて会ったのは、海の見えるレストランだった。 一緒に出かけることなどめったになかった父親が珍しく連れて行ってくれた先で、突然見も知らぬ女の人と見も知らぬ女の子と引き合わされて、これから同じ家で暮らすのだといわれた。
 ほっそりとしてさらさらとした黒髪の彼女は、色の白い顔をうっすらとほころばせて笑った。
 妙に機嫌を伺う女の人と、どこか決まり悪そうな父親の顔に、今日の意味を知らされていなかったのは自分だけだとわかり、ただただ腹が立った。反対する余地など端から与えられていなかった。これはすでに決定なのだ。


 だから、それからしばらくして二人が家に引っ越してきたときも出迎えてなどやらなかった。二階の自分の部屋にだけは絶対に入れる気はなかった。
 彼女は、何か大事そうに紺色をした長方形のケースを抱えて、少し困ったようにほほえんで自分の母親の方を見上げていた。
 その夜の食卓は四人で囲った。
 かつて母さんが座っていた席に、今まで知らなかった二人が座っていた。
 ご飯を食べる気にはならなかった。
 彼女の母親はおとなしい人で、どんな態度をとろうとも、声を荒げたり不満をいったりすることはなかった。代わりに父親が怒った。こちらが何に怒っているかも気づいてくれようとしない父親が腹立たしくて、悔しくて涙が出た。こんな人達の前で泣きたくなどなかったのに。それを彼女は見ていた。ただ目を細めて少し困ったようにほほえんで。それが悔しくて悔しくて。台所を飛び出して、自分の部屋に鍵をかけて、その日はどんなに怒られてもドアを開けなかった。
 同じ年くらいなのに、何も言わない彼女は大人で、この現状を受け入れられない自分だけがひどく子供だといわれているように思えた。 彼女は会おうと思えば会えるところに父親がいるくせに。そんなのは卑怯だ。彼女の細めた黒一色の目だけがずっとまぶたの裏にちらついて悔しくて眠れなかった。


 認めたくなくても時間は過ぎていく。次第に、家に帰れば他人がいることが当たり前のことになっていって。毎日顔をあわす女の人の作った食事を食べて、「いってらっしゃい」と言われて家を出る。けどそれは母さんのことを忘れる訳ではないし、否定する訳でもないとわかってきていた。多分初めからわかっていた。
 女の人は、臆病で優しかった。正面からぶつかってきてくれることはなかったけど、ときどき寂しそうな顔をした。そんなおばさんなら、部屋に入れてやってもいいかと思った。だから許すことにした。
 けれど、少ししか年の違わない彼女、鳩子と歩み寄ろうとは思わなかった。
 あの日の、細めた目を忘れることはできなかった。
 朝廊下で会うと、鳩子はほほえんで「おはよう」と言った。もちろん無視をした。日曜に庭で模型を作って遊んでいたら、彼女はいつのまにか縁側にやってきてそれを見ていた。「近くで見てもいい?」と聞かれたのでダメだといった。彼女はやっぱり少し困ったようにほほえんだのでイライラした。彼女に何がわかろうはずもない。


 連休があると四人で出かけることもあった。海に面した水族館に行った。いつもは物静かなおばさんも少し嬉しそうで、鳩子はおばさんの顔と父親の顔を見比べながらふわふわと笑っていた。
 シャッターを切るのが面白くて昔から好きだったカメラを持って、一人で浜辺の方に出ると、鳩子がついて来ていた。嫌だったので早足で岩場のほうへ向かった。ここまで来たらいないだろうと思って振り向いたらまだついて来ていた。イライラした。何を勘違いしたのかしらないが、鳩子は笑顔をつくった。
「ねえ、ハルちゃん、写真とるの好きなのね。わたしも好きなのよ」
「嘘」
 ご機嫌をとるためのでまかせだと思った。彼女は何とかして自分とつながりを持ちたいのだ。まるで本当の兄弟みたいにふるまって見せたいのだ。
「ほんとうよ。これわたしのデジカメだもん。わたしがとったの」
 彼女は赤い小型のデジカメを差し出した。
 そこには、変に写りこんだ白い壁が斜めに入っていて、青と緑のぼんやりした何かよくわからないものがあった。さっきぱっと撮ったようなひどい写真だった。
「嘘つき」
 差し出した手を振り払うようにすると、彼女の赤いカメラはガシャンと地面に落ちた。「あ……」、わざとではなかったけれど謝らなかった。
 彼女は黙って赤いカメラを拾った。泣くかと思った。泣けばいいと思った。
 でも彼女は目を細めた。
「いいよ。怒ったりしないよ。アユちゃんの弟もよく物壊すって言ってたもの」
「バカ!」
 腹が立って言い捨てると、彼女を置いてその場を去った。


 家で、来月にひかえた学年発表会のためにリコーダーの練習をしていた。
「治親、笛なら鳩子ちゃんに教えてもらうといい。鳩子ちゃんはフルートを習ってるんだから。いいかな」
 音楽のことなどわからないくせに、父親が余計なことを言った。
「はい、いいです」
 鳩子は笑顔で答えた。鳩子の笑顔はいつもいっしょの形だ。父親が、自分と鳩子の仲がよくいっていないのを心配していることも、敬語を使う鳩子のことを本当は気にしていることも知っている。知っているから、仕方なく教わってやることにした。
 二階の部屋で譜面を広げた。曲目は 『ラストダンスは私と』 。音楽の先生が好きだというなんか昔の曲だ。鳩子はほうっておいて勝手に練習することにした。
 彼女は最初居心地が悪そうにしていたが、やがて紺色のケースからとりだした銀色の長い楽器を組みたてると、口にあてた。
 吹いていると、鳩子は勝手に合わせてきた。がたつく間隔に沿うように、何度かくり返しているうちに、癪だけれども正しい並びを覚えてきた。
「…………この曲知ってる」
 音がやんだかと思うと、鳩子はぽつりと言った。
「最後のダンスだけはわたしのためにとっておいてねって歌。パパが好きでよくかけてた」
「………………」
 彼女が父親のことをこの家で口にしたのは初めてのことだった。
「フルートが好きで、フルートを習うように言ったのはパパだったの。そのうちこれが吹けるようになったらいいなって。ママは音楽なんて無駄なものだって思ってる人だったから、よく喧嘩してた」
「……へえ」
 あのおばさんが喧嘩するところなどあまり想像できなかった。
「パパね、出て行く前の日にフルートのコンサートに連れて行ってくれたの。ラストの曲が終わったとき、パパ目をおさえてたから、そのときはそんなにいい曲だったのかなって思ってたけど。私を置いていくからだったのね」
 そう言って鳩子は少し目を細めた。黒一色になった。
 なんで泣かないんだろうと思った。
「パパが出て行ってから、ママは黙って私のフルートを聞いてくれて、きれいねって言ったの」
 鳩子はどんな気持ちでその銀色の楽器を吹いたのだろうと思った。
「……でも、この歌は好きよ」
 思い出をすとんと断ち切るように、彼女は楽譜のコピーを手にとった。
「この女の人のところには最後にきっと大切な人が踊りにきてくれたはずだもの。わたしのところには戻ってきてもらえなかったけれど……、そうしたら、壁のところに立ってラストダンスを見てるわ」
「オレが行くよ」
 咄嗟にそう言っていた。
「オレが行ってやる」
 鳩子は細めていた目を開いた。それからさざ波のように表情が動いたのに、ああこの人は泣いていたんだと思った。あれほど泣けばいいと思っていたのに。そのときはっきりと、この人に泣いてほしくないと思ったのだ。






「あんた、ほんと写真下手だね」
 留学先の国で撮ったという写真を鳩子に見せられながら、あきれて言った。
「そりゃあハルちゃんに比べたら少しは劣るかもしれないけど」
「少し?」
「そう、少し」
「少し?」
 あれから何年たっても鳩子の写真はひどい。
 鳩子の写真の腕前が壊滅的に下手なことも、写真を撮るのが本当に趣味だったことも今では知っている。
「オレのパソコンのファイル、あんたが送ってきた訳わかんない写真でいっぱいなんだけど」
「ほんと失礼」
 鳩子はそういって目を細めたあと、とっておいてくれてありがとうと言った。
 お互い別の誰かを見つけていつか離れていくのだと知っている。
 時間は変わっていってしまうけれど。壁際に立っている彼女の元にいつまでも誰も来なければいいと思っている。
 そうしたら。ねえ、――そうしたら。








(07,10,28) 





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