緑 のじゅうたん紙の花
私は父さんと二人で住んでいる。 昔、とても好きな場所があった。今でも、忘れられない場所がある。 まだ小さい頃、私が住んでいた町の隣に、丸くないけど小さくて綺麗な池があった。 夏が近づくと、落ち着いたこの池に、どこからともなく薄い葉が広がり始め、夏の盛りには湖の全体がすっかり緑に覆い尽くされる。 その一面緑のじゅうたんの上に、点々と桃色の丸いものが落ちている。点々はしだいに増えていく。初めはゆっくり。 そのうち早く。そしてある日突然、一面緑だった池は桃色一色になる。 その落ちている桃色は、まるで紙でつくった花のようで、紙くずのようにぽんと投げられているように見えた。あの緑のじゅうたんを走って行ったら、ひょいと拾い上げられるような。 父さんに訊いたら、 「あの桃色のが蓮の花。こんな窮屈なところによく咲いたもんだ、」 感心したように応えてくれた。 そういえば、あの池の最初の記憶は父さんだ。必ず、蓮の池は父さんと一緒に見ていた。 どこかに行く途中に、あの池があったんだ。私はあの頃、父さんにつれられてどこへ行っていたんだろう。 私は少し大きくなって、一人で隣の町まで歩いていけるようになった。私はこっそり一人であの池まで行って、ほとりに生えていた花を摘んで帰ったのだ。 早速父さんの前で広げて見せた。きっと喜んでくれるだろうと思った父さんは、すごい剣幕で怒った。 水に近づいたからいけないんだ、とその時は思っていたけれど。 父さんは後から、 「もうあの池に行っちゃいけない」 と言った。 「どうして」 あきらめきれずに訊いたら、 「もう戻って来れなくなるかもしれないからね」 って。 何だか泣いてるような怒った顔で、父さんは言った。 きっとその池は怖いものなんだ、と私は後からそう考えたのだ。 もう行かないようにしようと思ったのに。花の広がるじゅうたんは、私には魅力的すぎた。水に近づかなければ大丈夫だ、と勝手に決めて、たびたび足を運んでは、絶対の距離をおいて眺めていた。 あの紙の花を拾おうとはもう思わなかった。 蓮の花のような、 そんな彼女に出会ったのも ――― その池。 記憶の中の彼女は、なぜかどれも蓮の花とおそろいの色の服を着ている。 彼女は私より、二つ三つ上だっただろうか。蓮の花のように柔らかく笑う女の子だった。最初、彼女とどういうふうに会ったのかよく覚えていない。 気がつけば、池のほとりに立っていて。こっちを見て笑っていたような気がする。 「一緒に行こう、」と 警戒する私にも、彼女は優しく手を差し伸べてくれた。そうだ。彼女はどこへ行くにしても、私の手を引いてくれた。白くてふんわりとした冷たい手だった。 遊んでくれたのはいつも池の周りだ。細いショウジョウバッタを捕まえたり、深い草の中のどこかで鳴いている小さなカエルを探したり、草の実を集めたり。 よくおままごとをした。彼女がお姉ちゃんで、私はその妹。 最後の日。 「ハスの花ってね、開くときに音がするのよ、ぽんって」 彼女がそう言うので、私たちは池のほとりに座って、いつまでも耳を澄ませて、蓮の花のどれかが開くのを待っていた。 でもいつまでたっても、音は聞こえなかった。 もうすぐ開くから、もうすぐだから 彼女はぎゅうっと私の肩に手を回して、いつまでも言っていた。それが「帰らないで」と言っているように聞こえて。 私は嫌ではなかったけど、何か痛みに耐えているような彼女の顔が気になって、黙って見ていた。 「一緒に行く?」 静かな彼女の問いかけに、あの時私は首を横に振ってしまった。 蓮の花が萎れて枯れる頃、彼女も一緒に姿を消した。 その池もいつか、時代の流れとともに、堅いコンクリートの下に沈んだ。 だから、それが最後の記憶。 あの女の子はきっと蓮の花の化身だったんだ。 そんな非科学的な事を信じる歳でもなかったけど、もしかしたら、なんて思ってた。 あの時よりまた少し大きくなったある日、鏡の中に彼女を見つけた。蓮の花のように笑ったのは私。 私がうんと小さい頃、父さんと母さんは離婚した。 父さんは私を引きとって。 じゃあ、母さんは誰を引きとったのか。 大人になって知った。 母さんの実家は、蓮の池の近くにあって、正式に離婚が決まるまで父さんは私をつれて何度もそこへ足を運んだ。 それからは幼い私が戻りたがるといけないので、行かないようにと言ったのだ。しばらくして母さんは引っ越して、それっきり。 私の記憶には、緑のじゅうたんとうすっぺらな紙の花と、蓮の花のように笑う彼女の姿がある。 あのじゅうたんの上を走って 走って行く ――― 姉 はきっと、私が妹だと知っていた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
電車から見える緑の池。 花が一面に咲いているのを見たときは、感動しました。 でもあれは水草だったかもしれない・・・。 (02,9,12) |