| 「わにってさ、本当の本当に追い詰められたら、二本足で走るんだって」 高下が突然解らないことを言い出すのには慣れていた。 「試してみたいよな」 高下はぼんやりと片肘をついて、窓の外を眺めている。 外は雨だった。 月曜日の雨だ。 憂鬱の憂鬱。 それに高下が加わって、憂鬱の三重苦。 安達はふっと息をついて、高下が見ているのと反対の窓を眺めた。 狭い距離感。 二人は学門のすぐ外にある、かろうじて屋根と呼べるようなものが乗っかった、板づくりの小さなバス停にいた。 バスを待っている・・・訳でもない。どうせバスは一日に二便だから。 今週の配達当番だった安達は、校舎からグラウンド一つ分隔てた学門まで、寮生宛の配達物を受け取りに来たっきり、通り雨に降られて帰れなくなった。 応急手段として門外で無人のバス停に入り込み、雨を凌いでいたところへ、よりにもよって高下が駆け込んできた。 こんな場所に何の用があったのかは知らない。知りたくもないし。 そして今に至る。 ぴちょん、ぴちょんとどこからか伝ってきた雫が、安達のつま先に小さな水たまりをつくる。 「どう思う?」 急に反対にいた高下に覗き込まれ、安達は息をつめた。高下の人形みたいに真っ黒な瞳がそこにある。 「何が、」 「わにが」 高下は頭を戻して、浮いた両足をぶらぶらとさせた。 「二本足だぜ、二本足。わにが。わになのに」 「知らないわよ」 知りたくもないし。 安達は怒ったように返す。 高下は黙って、先ほどよりつまらなそうに浮いた両足をぶらぶらとさせる。 安達は事実、怒っていた。 何で、月曜日の放課後で、嫌いな雨に降られて、配達物はこんな日に限ってゼロで、校舎にも戻れなくて、高下が居て、わになんかの話をしないといけないのか。何で。 何で。 いつもこんな言い方しかできないのだろう。 高下は悪くない。 安達にも解っている。 自分の中には、堅いひもで幾重にも巻かれた正方形の箱があって。そのひもを緩めることが決してできない。小さな隙間もない、正方形の箱の中。 自分でも何を詰めたのか忘れてしまった。中身を忘れた箱を今でもずっと厳重に護っている。護る理由も解らずに。 いっそぐるぐるのひもを切り離して、憂鬱より重いふたを開け放って、ぽいと投げ捨ててしまえればいいのに。 その代わり、箱を捨てた瞬間に自分は自分でなくなるだろう。 安達には解っている。 「わに・・・」 沈黙をいっさい気にしない高下がまた何か言いかけたのを遮って、雨音とは違うパシャパシャ水を跳ねる音が入り込んでくる。 窓から顔を覗かせた安達は、晴れやかに青い傘が校庭から走ってくるのを見た。 「あーちゃん、」 彼女はバス停にたどり着いてそう言ったきり、乱れた息を整える。 「急に降ってきたから、これ」 言って左手に持った300円のビニール傘を差し出す。明日、交代制で配達当番を務める安達のルームメイトだった。 「・・・げ、高下」 彼女は今初めて気付いたように、座ったままこちらを見上げていた高下に目をやった。B組の高下に、1組の彼女の視線は厳しい。 高下は下から見上げたまま、ひらひらと手を振る。 彼女は自分のさした青い傘と、手に持ったビニール傘を素早く見比べた。しばらく雨音が響く。 「貸して」 安達は彼女が何か発するより早く、300円の方を高下に押しつけて、同居人の青の下に入った。 「安達、」 バス停から離れようとする後ろ姿に、雨音を割って高下の声が届いた。 「わにだって走るんだよ、」 安達には、高下の言っていることがよく解らなかった。解らないのはいつもながら。安達には高下が解らない。 安達は、薄い茶色の瞳でじっと高下を見て。 青い傘はすぐに背を向けて、小さくなっていった。 高下はひょいとさしたビニール傘をくるりと一つまわした。透明な中心に、いくつも雫が散る。 自由に好き勝手な方向へ逃げる水滴を、高下は楽しげに見ていた。 外は雨。 月曜日の雨だ。 高下は、月曜日も雨も安達も、嫌いではなかった。 |