2. 午後になってから、ネリーは老技師のいる部屋をのぞいた。 「ねえおじいさん、籠ってどこにあったかしら。これくらいの大きさの」 「はいよ、何に使いなさるのかね?」 「庭になった実を今日の内に摘んでおこうと思って。明日は雨になるみたいだから」 「ああ、そりゃあいいことだよ。たくさん採れたらまた家の方に持っていっておあげ。どうせ屋敷にいるもんじゃ食べ切れやしないんだから」 彼から籠のある場所を聞いたネリーは、それを持って広い庭の隅へと足を運んだ。 南には小さな果樹園があり、その実目当てに集まってくる鳥の声でにぎやかだった。 果実の半分を人間が採って、半分は鳥に残す。この村でずっと前からそうしていることだった。 「ネリー、ネリーだろ?」 突然声をかけられ、ネリーは顔をあげる。 庭に即した柵の向こうに立っていたのは一人の村の青年だった。 「トト!」 名前を呼ばれた青年は嬉しそうに笑って片手をあげる。 ネリーも自然とこみ上げてくる喜びを顔一面にあらわして、籠を持ったまま柵に駆け寄った。トトはかつてネリーと同じ学級にいた一人だ。 活発なネリーはその頃から、彼やその友達と一緒によく木に登ったり、川に入ったりしたものだった。 「久しぶりだなぁ。なんだお前いい服なんか着ちゃって。変わり者の旦那がいる人形屋敷に住み込みで働いてるって話、本当だったんだな」 住み込みで働く・・・。 トトの何気ない言葉は、今のネリーには複雑に響いた。 「変わり者だなんて。ここの旦那さんはとてもいい方だよ」 「へぇ、まあお前がうまくやってんならそれでいいけどな。なに、通りかかったら柵の中に知った頭が見えたもんだからさ」 トトはからかい半分にネリーの赤い髪をぐしゃぐしゃと撫でた。 「あたしも会えて嬉しい。トトは今何やってるの?」 「村の郵便局で働いてるんだ。今日は頼まれてお使いだよ」 トトはそう言って、脇に抱えた小包をあげて見せる。 「そうだったの。ねえ、彼女は元気?」 「まあね」 青年は途端にばつの悪そうな笑いを浮かべると、先を急ぐから、と片手を振った。 「シルルによろしくね!」 「伝えとく。お前も元気でな」 苦笑する反面やっぱりどこか嬉しそうなトトを少し羨ましく見送って、ネリーは屋敷の方へと向きを変える。 ふと視線を上げると館の窓に、主人らしき姿が見えた。採れた実を見せようと籠を持つ手に力をこめたが、肝心の主人はカーテンの向こうに隠れてしまった。 ・・・なんだ。 籠をおろすとネリーは手をはたき、そろそろ屋敷へ戻ることにする。 先ほど主人が見えたのと違う窓に、ドールではない身なりのいい二人の紳士の姿が見えた。来客があったのだ。 ・・・聞かされてはいなかったけれど。 来客には心当たりがあった。主人の親族である。 彼らは月に一、二度 屋敷にやって来て、くどくどと主人に言い聞かせるような話をして帰る。 彼らが機械人形同様にネリーのことを快く思っていないことは確かだった。ネリー自身もそのことをよくわかっている。 彼らの気分を害さないようそのまま厨房へ行こうとしたネリーだったが、間の悪いことに出てきた来客と鉢合わせしてしまう。 ネリーは慌てて頭を下げたが、彼らは苦々しげにこちらを見やっただけだった。 ・・・旦那さんとは何の話をしたんだろう。 彼らが主人を訪れた後、ネリーはいつも心苦しいような気持ちでいっぱいになる。けれど、主人はその後で必ず普段と同じ調子で「お前はいつだって堂々としておいで」と言ってくれるのだった。 それだけでネリーの心はどれだけ軽くなったかわからない。 それはずっと変わらないことだろうとネリーは思っていた。その晩「話がある」と主人の部屋に呼ばれるまでは。 「この屋敷から出て行きなさい」 食事をとりなさいとか、水さしを持ってきなさいとか、普段の生活に必要なことを言い渡すのと同じ表情をして、主人は言った。 その声は、ネリーの耳を通り抜けて体の中に重くとどまる。 自分は何か彼を怒らせるようなことをしただろうか。そんなのはいつもだ。 ネリーは特にショックを受けない自分に驚いていた。出て行けと言われた自分を冷静に見つめるもう一人の自分がいるようだった。 いつか必ずやってくると。どこかでもう覚悟はできていたのかもしれない。 明るく振舞っていても。笑っていても。 それが今日きただけのことで。 主人の気まぐれは終わったのだ。 「荷物をまとめるのに二、三日はかかるだろう。住むところが決まったら連絡しなさい。暮らしに困らないだけの金の援助はする」 主人が淡々と決まりごとを読み上げるように話すのが、ネリーの耳に人事のように響いた。金・・・。金などいらなかった。 「・・・わかりました」 口を開くと主人と同じくらい淡々とした声が出た。 「でも、どうして」 「お前と私ではつり合わない」 一番大切に思う人の口から、一番聞きたくない言葉だった。 自分に与えられた充分すぎるほど広い部屋に戻ったネリーは、ねじの切れた人形のようにことりと化粧台の椅子に腰をおろした。 主人の親族たちの視線が頭の中をちらつく。 彼らを恨む気持ちにはなれなかった。主人にどんな言葉を投げかけたのだとしても、どんな説得の仕方をしたのだとしても、――それに動かされたのは主人だ。 考えて、決めたのは主人なのだ。 鏡の中には綺麗な服を着て、呆然とした顔の自分がうつっている。 唐突に、子供のころに聞かされた童話が思い出されてきた。 みすぼらしい羽の色をした鳥が、他の美しい色をした鳥たちの羽を拾ってはくっつけ、さも元から自分のものであるかのように自慢をするが、結局はそれがばれて周りには誰もいなくなってしまうという話だった。 滑稽で可哀相な鳥だとネリーは思った。 所詮は、仮もの・・・偽ものなのだ。 ネリーは鏡の中の自分を鳥と重ねる。 いくら美しい服を着ても、いくら着飾っても、嘘だった。それを着ている自分は何一つ変われてなどいないのに。 あんなにあった時間の中で、言葉も直せない、礼儀も知らない娘のままだった。 だから、主人に迷惑をかけることになるのだ。 つり合おうなどと考えた訳じゃない。ただ困らせたくはなかったのに。 そんな自分が堪らなく嫌だった。 |